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初めまして

 投稿者:  投稿日:2016年 1月28日(木)13時24分51秒
  30代主婦です。津原やすみ先生しか知らず、津原泰水先生を知ったのも数年前、更にtwitterもされていて驚きました。
エイリアンシリーズが大好きでした。今は譲ってしまい手元になく、ファンとも呼べない位でお恥ずかしいですが、折角気持ちを伝える場を見つけたので勇気を出して書かせて頂きます。
月2千円のお小遣いで本と文具を買ったらおしまい、悩んで選んだ本が面白かったら大当たり。千晶は私の友達で、星男は友達の彼氏でした。今、すごくすごく懐かしい気持ちで一杯です。青春時代に出会えて良かった、本当にありがとうございます。
私は何故か、お金の話や食べ物の話が好きなのですが(レ・ミゼラブルの銀の燭台のあたりとか、時代小説のご飯を作ったり食べたりする表記とか)、沢山のウインドブレーカーが届くくだりで、それが何なのか恥ずかしながらよく知らず、でもとにかくすごいお金持ちの行為だ(笑)、そして小説なのに何て文章が頭にカラフルに飛び込んで来るんだろうと驚きました。
こんな変な読者もいましたよ、という事で…。

音楽もされていると知り、精力的に活動されていて嬉しくなりました。
今はまだ子育てに追われていて本も食べられちゃいそうですが、津原泰水先生名義の本も読みたいと思います。
これからも益々のご活躍をお祈り致します。
 
 

猫ノ眼時計を拝読し

 投稿者:小夏美樹  投稿日:2016年 1月25日(月)17時16分52秒
  津原様

先日のトークショウ、ご講義と呼ぶべきどきりとするお話と
如何にも我慢出来ず鼻を膨らませながら笑いを堪えるお話と
凝縮された貴重な時間を、有難うございました。
少し笑わされ過ぎて、幾つもの至言を忘れそうになりましたが
家に戻って、書きとめました。宝物です。
お声の調子や、胸を叩かれた御姿は、心に刻みました。

宝物と云えば
『猫ノ眼時計』。
美味しい物は最後に食べる性格ゆえ、ページを捲るのが躊躇われましたが
読んでしまいました……嗚呼「完結」……

何処がどの様にどの位好きかという云えば全部なのですが

……241頁あたりからの流れは、堪らないです。
全然場面は違うのに、昔から魅かれて止まない栄螺堂が脳裡をよぎり
幼い頃住んでいた瀬戸内の様子、においや風、夜の海などがよみがえり
完全に全身(の感覚)が、持って行かれました。
津原様の、ご小説でしか味わえない、この体験。
好きという言葉だけでは、表現しきれないです。
あ、あと
「あはははは、知るか。うちと一緒に死ね」
という台詞には惚れました。

もう一つ、宝物と云えば
とてつもない方のツイッターで
澁澤邸での新年会の、お写真、を、見てしまいました。
本当に、人間は、あまりの事には目や耳が正しく機能しなくなるのですね。
有難すぎて、最初発見した時は、暫く目を逸らして居りました。
尊敬する方々が、聖地にいらっしゃる光景……思い出しても倒れそうです。

余計な事まで申しました。

只今
『クロニクル・アラウンド・ザ・クロック』の、まず表紙を
撫で撫でして居ります。


小夏美樹拝
 

ご投稿に感謝します

 投稿者:津原泰水  投稿日:2016年 1月 2日(土)11時02分33秒
編集済
  古川様;

 明けましておめでとう。
 僕の昨年は訃報ばかりで散々でしたが、今年は平穏に暮らせますように。
 古川さんのご一年も、ご多幸でありますように。

 僕が最も美しいと感じる漢語は「貢献」です。それが出来る人は必ず幸せになれます。
 古川さんの誠心誠意のお言葉には、それを感じます。

 僕は人類の最大の発明は、手紙だと思っています。ずっと昔から。
 一度に大勢に送れる手紙が、出版です。
 僕の本はすべて貴方への手紙です。ではまた。津原より。
 

はじめまして

 投稿者:古川ケン  投稿日:2015年12月31日(木)21時10分58秒
  津原さん、はじめまして。
古川と申します。
伝えたいと思いながら勇気がなく、20年以上経っています。

私は津原さんの言葉とお話が好きです。
中学の時にエイリアンシリーズに出会い、なんて気持ちのいい文を書く方なんだと心を震わせ、大学時代には男性だと分かって衝撃を受け、不思議なSFの入り込むお話を楽しみにしていました。

泰水さんになってからは毎回追い掛けることはなくなってしまいましたが、手に取ってしまえば津原さんの世界に引き込まれます。
最近、ルピナスが続いていると知り手元にあるルピナスと比べながら楽しく読みました。学生向けではないルピナスもワクワクしました!

今日はふと津原さんが気になって検索したところ、掲示板がありましたのでこの機会にと投稿致しました。
ずっと好きです。
私の青春は津原さん作品です。
私の胸に突き刺さるお話をありがとうございました!
津原さんに出会えた私の人生は倖せです。
 

吉川良太郎様

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年12月 8日(火)16時27分33秒
   誠実なるご反応をありがとう。
 風説の流布に関して、僕は最初から、一度たりとも吉川くんを疑ってはいません。
 またこの度のご投稿にて、それは見事に立証されたかたちです。なぜなら、もし君が流布者であるならば、流布された人々が「吉川は嘘つきだ」と叫ぶに決まっているからです。ご投稿は、そういう事態は決して起きないという確信の証明です。

 初期メンバーのうち最も若かった貴方は、さまざまな事象に翻弄されたのだろうと、当時から考えていました。
 いたずらに設定に設定を重ねるのではなく、整理する方向で多彩な発案をしてくれたのも貴方です。

「発表の場が出来た! しかも大勢に提供できる!」という単純な喜びに満ち溢れていた〈憑依都市〉でしたが、やがて奇妙な空気に包まれはじめました。権利という言葉が飛び交うようになりました。
 しかし、そもそも権利の放棄が、僕の最大のアイデアだったのです。
 そんな事を云いはじめたら、初期メンバー中の権利者は牧野さんと僕であり、牧野さんと僕が闘ったなら権利者は僕です。
「権利を放棄する権利」を行使するために、僕は独りで居残りました。

 皆さんのお仕事の邪魔にならぬよう、十年以上、〈憑依都市〉については沈黙を保ってきました。
 しかしその間にも、虚偽による包囲網をせっせと拵えていた者がいたこと明らかな以上、堪忍袋の緒が切れました。

 読者への裏切り。
 初期メンバーの罪過はこれに尽きます。
 そして僕はそれを擦りつけられました。
 正反対の風説の流布さえおこなわれなければ、僕は死ぬまで黙っていたのですよ。
 

津原泰水さま

 投稿者:吉川良太郎  投稿日:2015年12月 8日(火)12時16分45秒
  御無沙汰しております。吉川良太郎です。
憑依都市の件について津原さんのツイートを拝見しました。
返答が遅れましたことをまずはお詫びいたします。
ただ、遅れた理由は、ぼくがツイッターを利用しておらず(今まで一度も使ったことがありません)デビュー時に懲りて以来エゴサーチもしていないため、知るのが遅れたためです。それから当時の経緯を思い出し、手元に残っている資料を探すなどしているうち、一月弱の時間がたってしまいました。その間、御不快な思いをさせてしまったことと思います。申し訳ありません。

結論から申し上げますと、ぼくは津原さんに関する風説を流したことは決してありません。
していないことをどう証明すればいいかわからないので困っていますが、少なくとも、そのような噂を聞いたどなたに尋ねても、それをさかのぼっても、ぼくの名前は出てこないはずです。
また憑依都市企画を脱退した経緯についてですが、ぼく個人に関しては、完全にぼくの責任です。誰かと共謀した、嘘を教えられた、などといったことはありませんでした。

詳しい経緯を説明したいのですが、私事の諸々で、あまり時間がありません。
すみませんが、もう少しお待ちください。後日改めてお話ししたいと思います。
 

瀬名くんへ

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年12月 4日(金)22時34分10秒
   部分的とはいえ誠意のあるご回答に感謝します。

 先行する「憑依都市」は写真を中心とした過去のイヴェント・タイトルで、むろんまったくの偶然でした。
 慣例的にタイトルに著作権は発生しないので(せいぜい引用という扱い。発生するのだったら、あの人やあの人の小説作品はことごとく被っています。『バレエ・メカニック』だって古い前衛映画のタイトルです)、せっかく牧野さんが考えてくれたのだし、そのまま進めようというのが僕や編集者たちの判断でした。
 さすがに瀬名くんへの仁義をきらない『パラサイト・イヴ』という後発作品が出てきたら、問題だと思いますが。

 主義主張の差異はあれ、僕が最後まで抜けなかった初期メンバーであるのを公衆の前で立証してくれた瀬名くんに、食ってかかる事はもはやありません。ご安心ください。
 また『アクアポリスQ』の無料公開は、同書の古書市場での一万八千円超えという訳の分からない事態への対処であって、過去の〈憑依都市〉との経緯とは無関係です。そんな金額では若い人たちはとても読めない。
 お金のためではなく、読んでほしいから書く、というのは作家共通の想いだと信じています。
 

津原泰水さんへ

 投稿者:瀬名秀明  投稿日:2015年12月 4日(金)21時26分42秒
  津原泰水さんへ

 お返事をいただき、ありがとうございます。

 ご質問の件、「ロゴマークを買い取って一括管理するというアイデアは、誰がいい出したことだったのか」ですが、大変申し訳ありません、いまの私はまったく憶えていません。
 これが津原さんにとって満足のゆく回答でないことは充分に承知しています。私は何かを隠蔽したり、誰かを庇ったりしているわけではありません。本当に憶えていないのです。決して〈憑依都市〉を軽んじているから忘れたのだということではありません。その点、どうかご理解ください。
 ただ、「憑依都市」という言葉をウェブ検索したら先行使用例が見つかった、とメンバーの皆さんに報告したのは私だったと記憶しています。そこから商標登録した方がよいのではないかという話になったと思うので、作家やデザイナー本人が管理するよりは別の方法がよいのではないかという考え方のルーツの一端は、私・瀬名にあったようにも思います。

 私自身はいま、当時のメールを自分で掘り起こして精査することが難しいです。記憶を辿るのも非常に大変で、曖昧なお返事をしてかえって津原さんを混乱させてしまうような事態は避けたいです。
 ブログにも書きましたように、もし当時のやりとりについて精査が必要ということであれば、これ以上のことは専門家の方に見て判断していただきたいと私自身は思っています。

 すっきりとしたお返事にならず恐縮ですが、これがいま私のできることです。どうぞよろしくお願いいたします。
 

瀬名秀明くんへ

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年12月 4日(金)18時23分37秒
編集済
   敢えて「くん」付けとします。むろん敬称として。

 僕が犯罪的であると考えているのは、真反対の噂を実しやかに流す「風説の流布」および「名誉毀損」です。初期〈憑依都市〉は既発表事項から逸脱しようとはしていましたが、結局、そこには踏み込まなかったと認識しています。
 瀬名くんは流布者ではありません。そうするメリットが、その後SF作家クラブでご苦労をなさっていた貴方にはありませんし、理系にして実証主義の貴方がそんな工作で「悪いのは津原」とできるなどと夢想するはずはないからです。
 また僕以外の五人のうちで最後まで踏み止まって、僕を説得しようとしたのも瀬名くんでした。その責任感も大いに評価します。

 しかし流布者は存在しました。そうでなくては、この情弱の僕の目にもばたばたと、「同じ」偽の内幕を主張する者が現れるはずはありません。これは論理的帰結だと思います。
 僕が〈憑依都市〉について書きたい放題だとお感じかもしれませんが、たとえば電話は一種の密室ですから、そこでのやり取りは最大限に避けて記しております(ときたま筆が滑りますが)。個人メールの内容も基本的に記しておりません。あんなもんじゃなかったとお考えください。

「現実的な対処をすべき」という意味では、瀬名くんと僕の考えは一致していたと思います。ただしその「現実」にギャップがありました。
 これはスタアとして世に出られた存在と、下積みの長かった存在とのギャップでもあります。ロゴマークの価値やデザイン料の相場を知る者と知らない者のギャップでもあります。
 徳間書店の会議室で瀬名くんが提示なさった買取り金額、あんなの支払ったら〈憑依都市〉は出だしから大赤字でした。「誰が払うんだよ」と思ったな。

 率直に反応してくれている当時の作家は、今のところ瀬名くんだけです。そこでお尋ねします。
 ロゴマークを買い取って〈憑依都市〉を一括管理するというのは、いったい誰のアイデアだったんですか?
 会社をまたいで、あるいは同人誌も含め、誰でも書ける、でもロゴマークが無いと〈憑依都市〉だと判らないから、三千~五千円で紙媒体用の精密な印刷データを提供しますよ、が本来のアイデアでした。実際には千円の例もあった。
 ここ、デザイナー諸氏、嘆息するところです。長年かけて十冊出ても、累計三万~五万円です。たったそれだけを回収する前に死んでしまうかもしれない。
 僕がデザイン案を提出しているとはいえ(むろん無償です)、いったい何日かかる作業だと思われますか。フリー素材にぽんとフォントをはめ込んで完成だとでも? ほぼ手作業なのです。僕はそれを頼みこんだ。本来の〈憑依都市〉のために。

 誰が話を歪めたんですか? 僕の居ない場で。
 

津原泰水さんへ

 投稿者:瀬名秀明  投稿日:2015年12月 4日(金)17時01分5秒
  津原泰水さんへ

もう一度〈憑依都市〉のことについて書きましたので、下記URLをご覧いただければ幸いです。
リンク先をご覧になりましたら、この私の投稿は消していただいて構いません。
ご検討をいただければ幸いです。

瀬名秀明

http://hsena.sblo.jp

 

アクアポリスQ#29

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月24日(火)19時25分13秒
編集済
   まっすぐ進んでいけば間もなく学校だというのに、Jは不意にオートバイを脇道へと進めた。
「どうしたの」タイチは大声をあげて尋ねた。
「追われている」
「誰に」
「わからない」
 角を折れ、また折れ、そうしてジグザグに道を進んで、川沿いの道へと上がる。タイチは後方を見た。ちょうど同じように上がってきた車影があった。
「後ろの車?」
「それもだが、一台じゃない。次の橋の手前で速度を緩める。飛び降りて、人目につかないように歩いて帰れ」
 橋が近づいてきた。前方に突然、幾つもの赤色灯が点った。封鎖されている。
 背後からもサイレン。驚いて振り返ると、複数の覆面パトカーが道を塞ぎながら迫っている。
「ヘルメットかぶってないから?」
「そんな程度の騒ぎなものか」
 オートバイが大きく左右に振れた。Jが分岐を下ろうとし、その先の封鎖にも気づいて、慌ててハンドルを戻したのだ。
「畜生、ACEに先読みされている」
「どうするの」
「飛び降りるな」
 橋へと折れた。他に選択肢はなかった。しかし橋の対岸にも赤色灯があった。封鎖されている。
 オートバイは橋のほぼ中央で停まった。
 Jはスタンドを下ろしながら、「抵抗するな。今は命を守ろう」
 両岸から一台ずつ、自動車が迫ってきた。一台はパールホワイトのメルセデス、もう一台は幌付きの軍用トラック。トラックから自動小銃を構えた多国籍軍の兵士たちが降りてきた。あの色のベレー帽はどこの国だったろう? 思い出そうとするのも面倒だ。タイチは疲れはてている。
 メルセデスから降りてきたのは、こざっぱりした背広姿の壮年と、屈強そうなふたりの制服警官だった。
 背広の男が言った。「ミズJ、それから立花太一くんだね」
 肯定したものか、それとも否定しておくべきなのか、タイチには判断がつかない。Jの手が彼の肩を抱き、引き寄せる。それから不意に彼女は倒れた。
「な……」と驚いている男に、
「失神しやすい体質だって自分で言ってました」と“タイチ”が教えた。「僕、このおねえさんに引っぱりまわされて、いろいろとひどい目に遭わされちゃって。いい加減に学校に帰りたいんですけど」
「ほお」と男は顎を撫でた。「なぜ引っぱりまわされたんだろう」
「弟子にしたいとかって、いろんなことを教えてくれました。僕のこと、自分と同じ融合型のペールだとか言って」
「ほお」男は両眼を見開き、それから柔和な笑顔をうかべ、「興味ぶかいね。ともかくあの車に」
 どこかで見た笑顔だとタイチは思い、後部座席に彼と並んで掛けてから、いつかテレビで語っていた警察署長だと気づいた。
 

アクアポリスQ#28

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月24日(火)19時18分53秒
編集済
   見れば、ハザマの左手は上着のポケットのなかにある。擬人インターフェイスは介護用や幼児向けを中心に普及の兆しがあり、それ自体は驚くほど珍しいものではない。しかしこれほど凝ったものを衣服に仕込むといったら、いったいどれくらいの金がかかるのだろう。
「いい歳をしたおばさんの少年趣味とどっちがましでしょうね」
「もう一度おばさんと言った瞬間に殺す」
 短絡的な言い種のわりに、Jの声は低く重たく、ハザマは大きく身じろぎした。一瞬ホログラムも揺らぎ、奇妙な角度になる。しかしすぐに自動補正された。白人青年はJの真後ろへと移動した。
「いま試しに解読を経験してみますか。少々苦しいかもしれませんが」
 Jの顔色がはっきりと変わった。沈思するような表情を見せたあと、「人間と電算機を一緒にするな。何一つ読み取らせはしない」
「ふふ、未だACEのなんたるかをお分かりではないようだ」
「神か? しかしその神が私の知識を吸収すれば、ニレにも共有されてしまう。取引が成立しなくなるぞ」
「その辺のことは万全です。さっきあなたは私をギークと呼んだ。当たらずとも遠からずでしょう。しかしそういう人間を舐めてもらっては困る。ある意味で開発者たち以上にACEを理解しているのが、この私だ」
「そんな脅しは通じない」それからホログラムを振り返り、眺め、「お前、ちょっとデッサンが狂ってるぞ」
 ハザマは舌打ちした。「エドワード、ACEにアクセス。ウォーターメロン・シュガーを探せ」
 ポケットのなかの手でも操作できるのだろうが、彼はことさら音声でそうコマンドした。ホログラムが両手を上げ、合掌をするようにJの頭を挟み込んでいく。Jは煩わしげに頭を振ったが、むろんホログラムの動きには影響しない。また視覚的に相手を避けたところでなにか変わるとも思えないのだが、とにかく彼女には不快らしい。
 Jが大きく後ずさり、貴族めいた青年との二重像になった。自動補正が起きてホログラムも遠ざかる。その両手は彼女の頭に埋まっているように見えた。
 Jは次第に身を引き攣らせた。
 白眼をむいた。
「J」タイチは思わず前に踏み出しかけた。
 銃身でこめかみを小突かれ、また身を縮める。
 十秒も経っただろうか。ん? とハザマが発して、軽く身悶えた。ポケットのなかの端末が思うに任せなくなったようだ。
「かかったね」とJが明瞭に発した。
 見れば彼女の痙攣はおさまり、長身を誇るようにすっくと立ち、一方で背後のホログラムは乱れはじめていた。次いで彼女の発した無声音は、タイチの耳にこう響いた。
 来い、濡女。
「……あんた、なにをした」
「私のほうから侵入したような言い種じゃないか。せっかく繋がったんで、ちょっと壊れた前頭葉を代替してもらったよ」
 ひゃ、とハザマが奇声を発する。濁った突風のような何かが彼の足許を掠め、Jに、いやその向こうのサイトへと突進していったのだった。
 犬。灰色の犬。
 あああ、とサイトが初めて澄んだ高い声を発した。それは驚嘆の悲鳴のようでも、歓喜の叫びのようでもあった。
 犬は前肢を上げて彼に飛びつき、そのままどさりと横倒しになった。屍に戻った。
 銃声。
 タイチは自分が撃たれたと思い、身を竦めた。
 余韻に、莫迦野郎、というハザマの怒声が重なる。
 タイチは顔を上げた。サイトの頭に銃を向けていた男が、パニックを起こして引鉄を弾いたのだとわかった。しかしサイトの姿は、すでに浮き橋の上に無い。
 犬の屍が赤く染まり、周囲からのあかりにぎらついている。
 強烈な既視感がタイチを襲った。立体感に満ちた赤い液体……アクアポリスの小学校の階段。それはひとかたまりのまま、軟体動物のように犬の体表を舐めたあと、跡形もなく橋板の隙間に消えていった。
「なにがどうなってるんだ」
 ハザマが愕然と、タイチやJのことなど忘れたように犬に近づこうとし、Jの長い脚がすかさずその腹を蹴った。ハザマは蹲った。すでに乱れきって浮き橋のそこかしこに現れては消えていたホログラムが、今度はどういう誤作動でか子守歌をうたいはじめた。Jはハザマの右腕をねじり、拳銃を奪った。
 とつぜん浮き橋が激しく上下する。タイチは尻餠をついた。地震? 津波? まわりの舟のなかで悲鳴があがっている。Jが飛びついてきて、彼を抱え起こした。
「逃げろ。牛鬼が現れる」
 角度を増していく浮き橋を、滑り落ちるようにふたりは進む。別の橋へと渡り、タイチが振り返れば、ボート街の一部がすでに大きく盛り上がって、あちこちで電線がちぎれ、火花が上がっている。
「急げ。死ぬぞ」Jが強引に腕を引く。
 自分がどちらに向かっているかもわからぬまま、とにかく彼女に歩調を合わせた。揺れる板の上を走り続けた。
 気がつくと、堤防の上だった。堅固なコンクリートの感触は、別種の揺れが生じたような錯覚を招いた。ようやく速度を緩めたJが、険しい表情でボート街を振り返る。タイチも同じくしたが、無数のあかりが激しく上下しているばかりで、これが牛鬼と明瞭にわかる影は見当たらなかった。
「大惨事にはなるまい」とJ。「ハザマたちを殺せというメッセージしか、濡女には託さなかった。それを果たせば、牛鬼はまたサイトのなかに戻っていくよ」
「でも、舟で暮らしてる人たちも」
「多少は犧牲者がでるだろうね。私を責めるな。私がハザマにどういう返事をしても、きっと君は殺された。それだけは避けたかった」
 ありがと、とタイチは呟いたが、ひどく胸苦しかった。「嬉しいんだけど、あそこに住んでる人たちは無関係なのに」
「わかっている。そのうえ牛鬼召喚にACEを利用してしまった。召喚のメカニズムは、いずれニレたちに知れてしまうだろう。厄介なことになった」
「アクアポリスの危機が近づいた?」
「そういうことになる」
「僕を見捨ててくればよかったとは、もちろん思わないけど……」
「苦しむな。私の判断だ。まだ君を死なせるわけにはいかない」
 オートバイは同じ場所にあった。Jが跨り、乗れと後ろを指し示す。
「どういうこと? 死なせるわけにいかないって」
「根拠はない。ただの予感だよ。君は恐らくアクアポリスを救う」
「どうやって」
「ただの予感さ。ともかく今夜は君を寮まで送り、この単車を元の場所に返して、私も身を休める。いまじたばたしても仕方がないだろう。君もゆっくりと眠ってくれ」
 

アクアポリスQ#27

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月24日(火)19時14分41秒
編集済
   堤防沿いの倉庫街で、今度こそすっかり犬の姿を見失った。きょろきょろしながら歩いていると、倉庫と倉庫の間から不意に大型のオートバイが飛び出してきて、タイチの目と鼻の先に停まった。運転者はヘルメットを被らず長い白髮をなびかせている。
「見失った」
「もう充分だ。濡女の足跡は蛇の尾のように長い気配を残す。すでに見切ったよ。濡女は海上スラムを目指しては、牛鬼を感じてみずからの消失に怯え、遠ざかる、を繰り返している。このあいだは目の前のQ龍で立ち回りをやっていたというのに、灯台下暗しとはこのことだね。後ろに」
「ヘルメットがない」
「私もだ」
 タイチはオートバイに跨った。アメリカンスタイルなのでシートは低い。
「これJの?」
「違う。誰のだろうね」
 走りだす。Jの髪が顔にまとわりつく。オートバイは堤防に上がった。その上の細道を飛ぶような勢いで進む。Q龍裏の海が近づいた。ナオトとタイチがダストシュートから落とされたあたりだが、こうして外から見ているぶんには、海面の揺らぎはまったく目に入らない。ボート同士を繋ぎ合わせて建て増し、至る所に浮き橋を渡した、過密な舟の街だ。
 ここにサイトが……。タイチは奇妙な胸の高鳴りを感じた。自分とナオトにタイヤを投げてくれたのは、ひょっとしてサイトじゃないんだろうかとも想像した。
 オートバイが停まる。タイチはシートから降りつつ、「どこから探すか見当は?」
「なにもない。ここには地図も住所もないしね。訊ねてまわるほかないだろう」
 堤防を下り、浮き橋に跳び乗る。波音は穏やかだが、足許がゆるゆると上下する感触は、嵐の日のアクアポリスを彷彿させた。Jはただ直感に従って進んでいるのだろうけれど、その足取りに迷いは感じられない。分岐ごとに止まって軽く頭【かしら】を巡らせるものの、すぐに方向を定めてまた足早に進む。タイチは彼女が設計士であることを思い出した。街の構造を見極めながら歩いているのだろう。
 スラムは決して暗くない。むしろ眩しくて歩きづらいほどだ。大概の舟が、長い電線を張り地上から盗み続けている電気で、ブルーシートやカーテンの向こうに電球を灯している。なかの人影が鮮やかに映し出されたシートもあるし、子供を叱りつけているような外国語も聞こえる。余所者らしき跫音に対する隙間から怪訝そうな視線も感じる。後ろから近づいてくる跫音に気づいても、なんらかの用事で他の舟に渡っていく住人のものだと思い、タイチは警戒しなかった。もし言葉が通じる相手ならサイトのことを訊ねてみようと思いたち、振り向いた。
 目の前に銃口があった。
「J」タイチはひっくり返りそうな声で叫んだ。
 拳銃を握っているのは、そんな武骨な得物は似つかわしくない、品のいい顔だちに縁なしの眼鏡をかけた青年だった。
「動いたらすぐに撃つ。脅しではない」
 Jが浮き橋を駆け戻ってきた。「ハザマ」
 青年は落ち着きはらった声で、「お待ちしておりました」
「お前、やっぱり二重スパイだったね」
「また人聞きの悪いことを。私は独立独歩、官房長官に取引を申し出ているだけです。先方も歓迎のご様子で」
「莫迦な男だ。ニレは甘くない。ことが終われば消されるよ。それからその少年に指一本でも触れてみろ。私が今、即座に殺す」
「そのあいだにもうひとりの少年が死ぬとしたら?」
 Jの背後に二つの人影が現れた。拳銃を握った別の男、そしてその銃口を頭に突きつけられた少年……伸び放題の髪の毛にみすぼらしい服装。近くのボートの住人が騒ぎを聞きつけてカーテンを開き、また慌てて閉じた。少年の顔が、かたときしらじらと照らされた。
「……サイト」タイチは呟く。
「当方にとっては、どちらの少年も無価値なのです。もしあなたが私の話に耳を傾けてくださらないなら、二つ、もしくはあなたを含めて三つの屍体がこの汚い海に浮かび、牛鬼はいずこかへと消える。とはいえ長官は、いずれ方法を見つけてアクアポリスを破壞するでしょう。あなたが生き延びていたとしても、もうゴショウメさんはいないし、ACEにもアクセスできない。勝算はありません。むろん私も取引を失うが、もともと棚から落ちてきたぼた餅です。損をするわけではない。しかしあなたが協力してくださるなら、ここにいる誰も死なない。全員が幸せになれる。おわかりですね? ミズJ」
 タイチとJ、成長しているもののサイトに違いない少年、ハザマと呼ばれた男と、もうひとりの男。五つの立像は周囲の舟からのあかりに照らされ、緩やかな上下を続ける浮き橋に、無数の影を落としている。その鮮やかな情景はどこか現実感に乏しくて、リモコンを操作すれば一切が消えてしまうのではないかとタイチは思った。波音が迫り、去り、また迫る……。
 ふん、とJは鼻を鳴らし、「アクアポリスの守護は諦めろと?」
「というより破壊に加担するのです。ここにいる我々が手を組めばそれができる。おたがい豊かな老後を送ろうじゃありませんか」
「夢も希望もない奴だ。そのうえことの本質をまるで分かっていない」
「無理解なのはそちらです。たしかに長官は甘い方ではない。それに対して牙を剥いているのはどちらですか」
「そんな話をしようとしたんじゃないよ」Jはかぶりを振った。どこか諦めたように、「絵を解析した痕跡は消去しろと命じたし、たしかお前も完了しましたと言った。にもかかわらずここに辿り着けたとは驚きだ。網膜の残像でも解析してもらったか」
 ハザマは失笑し、「消去したはずだったんですが」
「間違って消え残っていたのを、ACEが勝手に解析したか。まあそれでいい。だが残念なことにね、私がお前やニレにしてやれることなど何もない。牛鬼を意のままにする魔術など、私に使えるものか」
「しかしそのための知恵はある。本来のあなたにだったら、メッセンジャーたる精霊【スピリット】を操ることなど容易い。空虚後二年、ライブラリでの不可解な殺戮を引き起こしたあなたは、警察病院の地下に監禁されたものの、以後も不可能なはずの脱出劇を繰り返して、そのたびに何人もが犧牲になっている。しかしいずれの死も、あなた自身には手をくだしえない場で起きたものだ。研究者たちはあなたが精霊……古風にいえば式神【しきのかみ】……を操るらしいと仮説し、とりあえずの封印として、あなたに前頭葉白質を破壊する手術を受けさせた。一種のロボトミーですね。お気の毒に」
「よく調べたものだ。それともゴショウメがお喋りだったのかな」
「あなたの脳には今も、生命維持やその後の強制治療のための電極が、幾つも残存している。なんでしたら、そこから問答無用とACEを侵入させてもいいのですよ」
 Jの横に縦長の光が生じたかと思うと、そこに人間が現れ、ハザマサマ、コマンドヲドウゾ、と言った。ギリシャ彫刻もかくやという白人の美青年であり、金色の長髮、口髭、それが前々世紀の貴族ふうな衣装をぴったりと身にまとっている。陰影の不自然さから即座にホログラム・ヴィジョンだとわかったが、いったいどこからどうプロジェクトしているのか、タイチには不思議だった。
「相変わらず悪趣味なインターフェイスだこと」Jは眉をひそめた。「タイチ、そいつは端末だけじゃ飽き足りず、プロジェクタやプリンタまでウェアラブルにして喜んでいる。仕掛けはぜんぶ上着のなかだよ。とんだギークだ。見習うな。ろくな大人にならない」
 

アクアポリスQ#26

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月24日(火)13時43分31秒
   Jの脱け殻を抱えたナオトが遠ざかるのを待ち、“タイチ”は“サヤ”に近づいた。さっきは明瞭にサヤの姿をしていたものが、今は陽炎めいた揺らぎに包まれている。ふと陽炎が濃くなり、波打つような空気の向こうに青黒く変色した縊死体が覗く。タイチは声なき悲鳴をあげた。
(失敬。すこし感覚を遮断しよう)
 陽炎が収まる。“タイチ”は告げた。「われは牛鬼に非ず。そを調伏せし道摩法師なり。久しぶりだな、濡女」
“サヤ”は崩れるように地面に膝をつき、そして傅いた。
(道摩法師? 末裔じゃなくて?)
(あとで説明する)
「牛鬼にまみえたくば、われにまことを近い、われに従うべし」
“サヤ”は頭を深くし、“タイチ”は門の方向に歩きだした。振り返れば、ゆらゆらと“サヤ”はついて来る。
(私はフュージョン……すなわち秦ハンナとある種の精霊【スピリット】の融合体だ。こういう融合型ペールの存在を否定し、一種のヒステリー発作や多重人格と見る学者は多いし、実際にそうなのかもしれない。自分のことはよくわからないものだよ。Jとはヨナの頭文字だ。生まれ変わって昏睡の海から這い上がろうとする自分を、鯨の腹で過ごして戻ってきたヨナに見立て、ハンナが付けた名前だが、目覚めたときハンナの意識はその背後に隠れてしまった。記憶は検索できる。率直に言って、彼女は天才だが、狂っていた)
(Jは? 正常なの?)
(私に問われても困る。ハンナが道摩法師と呼ばれし者の正統であるのは事実で、そのことが彼女を狂わせた。Q市の守護者たらんとし、その頭脳と直感を駆使したものの、じつのところ護符は完成しなかった。アクアポリスが陽の護符ならば、どこかに陰の護符もこしらえて、相互に護りあわせねばならない。ハンナはそれをQ龍の地下に置いた。しかし完成のさせ方がわからず、無力を血で贖おうとして、飛び降りたんだ)
(でも生き延びた)
(そう。だから護符は未完成のままだ。ハンナが死んだからといって完成したとも思えないがね。ゆえに今はまだ、私の力が必要なのさ。おそらく道摩法師というのは個人ではない。私のような異能者の総称であり、ならば想念の集合体ともいえる。すなわち私は道摩法師の末裔であり、また道摩法師そのものなんだ)
“タイチ”は路面電車に乗った。“サヤ”も乗り込んできた。どこかしら“タイチ”を畏れているようで、数人ぶんの距離を保って吊革なしに立っている。ゆらり、ゆらり、今にも転びそうなのに一向に転ばない。
(サイトの居場所、わかったの)
(だいたいのところはACEが割り出した。材料としてあの絵を提供させてもらってね)
(嘘、統治府に渡しちゃった?)
(渡しはしない。ゴショウメの腹心に、目の前でACEにアクセスさせ、解析させた)
(大丈夫かな。このまえ二重スパイの可能性があるって)
(どうだろうね)Jは、くく、と含み笑いした。思惑があるのだろう。(ACEは、じつに面白い結論を告げてきたよ。絵の創造者と所有者、双方の人生はすでに再び交差しているという。君はすでにサイトに逢っているよ、気づいていないだけで)
(そんな……いったいどこで)
(海の近くらしい。それ以上はわからない。君の生活圏で海辺といえば、たとえばアクアポリス、たとえばチャイナタウン、あるいはQ龍……)
 Jが場所を挙げるごと、タイチはその景色を思いうかべ、そのいったいどこに、どんな姿でサイトが潜んでいたというのかと訝しく思った。はたと疑問が生じた。海辺でもないSSSの寮に、濡女がやって来たというのはどういうことだ。ACEの答が間違っているのか、それともJが虚偽を語っているのか……。
(私は嘘など言っていない)ぴしゃりとした声が響く。伝わったらしい。(君の背に、牛鬼ここに在りと書いてあるからだよ)
(あの模様……弾丸除けじゃなかったの)
(その点は騙した。すまなかった。君はエンプティではないが、似た資質がある)
(僕に?)
(私の直感だがね。だから牛鬼が憑いているふりをさせるのに恰好だった。ついでに言うと、いま濡女が素直について来ているのも、べつに私の力じゃない。今の君は濡女にとって誘蛾灯だ。強烈に惹かれるものの、同時に私の気配も感じて怯えてもいる。サイトの潜伏場所に近づいたら、君の匂いは消してあげるよ。あとは濡女が案内してくれる。君も久々に会いたいだろう?)
(それで牛鬼が出てきたら)
(濡女というのはじつに哀しい存在でね、牛鬼に恋い焦がれながら、自力でその睡りを醒ますことはできない。相手の怒りに怯えながら周囲をうろつくばかりだ。牛鬼にまつわる古来からの伝承を教えてあげよう。人間の女に擬態した濡女は水辺に佇み、人が通りかかるのを待っている。近づいてくると、抱いてくださいとかかえていたものを差し出す。見れば赤ん坊だ。受け取ると、濡女は水のなかに消えてしまい、代わりに牛鬼が現れる。赤ん坊だと思っていたものは石で、しかも手から離れない。うまく逃げられず、牛鬼に食われてしまうという。食べられるというのはおそらくメタファだが、とにかく死んでしまっていたのだろう。枕草子で『名おそろしきもの』の一つに挙げられている牛鬼だが、基本的に睡ったきりの存在なんだ。それに対し濡女が伝承中で顕現しているのは、他者の力を介してのエネルギー融合としての覚醒だ。もし濡女が直接牛鬼を目覚めさせようとすれば、そのあまりのエネルギーにたちまち呑み込まれ、消失することだろう。だから介在者なり、自然がつくりだす稀有な状況なりが必要なんだよ。その法則性を発見し、逆に状況を恣意的にこしらえることすらできたのが、道摩法師なのさ)
 夜のチャイナタウンで、のろのろ運転になった電車から飛び降りる。“サヤ”も降りた。
(またQ龍に行くの?)
(いや、その向こうの海だ。そろそろ牛鬼の匂いを消してみるか。ちょっと痛むぞ)
“タイチ”はネクタイを弛めシャツの襟首から背中に手を入れた。爪の先で、何箇所かを引っ掻く。あきらかに傷になったであろう強さだ。
(痛……ひどいな、躯を貸してるのに痛みは引き受けてくれないの)
(私もすこしは痛いよ)
(血、出てないかな)
(新しいシャツをプレゼントしよう。ともに生き延びられたなら)
 タイチは絶句した。
 追従していた“サヤ”のようすが一変した。おろおろと進むべき方向に迷っているようなそぶりを見せたが、そのうち路地の一つに入り込んでいった。“タイチ”も追う。飲食店の残飯を漁ろうとしていた痩せこけた野良犬が、驚いて表通りに逃げていく。急ブレーキの軋り。だん、という打撃音。車道に飛び出した犬が、通りかかったタクシーに撥ねられたのだ。
 犬の身は路地にはじき返された。動かない。タクシーは停止してようすを窺っていたが、じきに面倒ごとを避けようとするように急発進した。
(しまった)とJ。
 犬のまわりには血溜まりができ、それが車道からのあかりでてらてらと輝いている。輝きに吸い寄せられるように“サヤ”が近づいていく。
(しばらく独りで追っててくれ、犬のほう)
 突然の落下感にタイチは驚き、思わず両手を上げた。動く。しばらくぶりに自力で動かす肉体は、妙に重かった。
(J?)
 返事はない。
「J」と今度は声に出したが、やはりない。
 路地の先で“サヤ”の身がどさりと崩れたかと思うと、代わりに犬が起き上がり、ぶるると身を震わせた。タイチは恐る恐るサヤに近づき、その発散する腐臭に顔をしかめた。直視できる姿ではなかった。犬は家路を目指すような軽快な足取りで、ほかの路地へと入っていく。タイチはサヤに手を合わせてからそれを追った。
 路地から路地、そして雑踏のなか。タイチにとっては小走り程度の速度だが、大きな犬ではないうえに薄汚れた灰色が夜の街での保護色となり、しばしば見失いかける。かと思うと犬のほうから近づいてきたりもする。また思い直したように逃げていく。牛鬼の匂いは薄れきっていないらしい。奇妙な道順ながら海に近づいているのはわかる。街並みが次第に薄汚れ、空気は澱み、それでいてあかりと喧噪は増していく。Q市が復興景気に沸いた頃、この沈みかけた旧市街地は、不法労働者や娼婦で溢れ返った。その名残は今もはっきりとある。昔ほどの数ではないものの多国籍軍も駐留し続け、自警団のように振る舞っている。
 

アクアポリスQ#25

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月23日(月)15時43分26秒
編集済
   足は、さきに喫茶あみんに向いていた。路地に入ると制服警官の姿が見えた。事件以前との景色の差異をほかにも見出そうとして、しかしなにも見つけられぬまま、タイチは店の窓の前にまで至った。警官がこちらを見ている。日曜の警官とは別人だ。怪しまれぬよう頭を下げる。
 ガラスの向こうに店主の赤いチョッキが現れた。テーブルを拭きはじめる。やがてタイチに気づき、かぶりを振って見せた。タカコは出ていないという意味だろう。べつにタカコに会いにきたわけではなかったが、かといって他に目的もなかった。いや、きっと自分はタカコの不在を確認にきたのだ。
 カンナの父からJの正体を聞かされて以来、なにを信じたらいいのかわからなくなっていた。週末の体験のどこまでが現実なのかさえ、今は疑わしい。タカコがあみんに不在であることが、すくなくとも記憶の一切が妄想ではないと、自分に保証してくれたように思えた。
 こんな不安感のなか、もし亡き父だったら、どうするだろう。
「進め。とにかく進め。信じられる方向に進め」
 無意識に呟きながら歩いていた。それは自分の言葉ではないと思ったけれど、父が死んだときはまだ言葉らしい言葉も発さなかったタイチが、彼からそんな訓誡を聞かされたはずもない。
 ……そうかな。案外と、僕は憶えてるんじゃないか?
 生真面目な人だったという。正直すぎて、真剣すぎて、かえって損ばかりの人だったと母は今も言う。まだ這い這いの僕に、僕をあたかも一人前の男と目して、彼は本気でそう諭したんじゃないか?
 幼児の記憶力は物凄いとも聞く。そのとき意味はわからなくても、彼のそういった言葉が原初的な記憶として僕の無意識層に留まっているとして、なんら不思議なことじゃない。
「進め」
 タイチは自分を叱咤した。才能がなんだ。ペールがなんだ。小さなことを考えるな。僕は両親に祝福されて生まれてきた。なぜなら、それは僕が、あらゆる人々の幸福を守る、素晴しい、誇り高い、貢献者になりうるからだ。お父さんのような。進め。タイチ、進め。
 ケータイ会社の営業所にはタイチが持っていた機種の新品が用意されていた。相応の実費を取られたが、データは救済できなかったとのことでメモリはまっさらだった。すっかり気落ちして、とぼとぼと寮までの道を辿る。
 日が落ちた。通称、鴉屋敷。冬、造園業者が枯れ蔦をすっかり取り払うのだが、蔦の生命力は凄まじく、初夏にはもう、二階あたりまですっかり被われてしまう。黄昏の風になぶられ、ゆさゆさと建物全体が揺れているように見える。
 タイチ、と名前を呼んでナオトが追いついてきた。彼の肩を叩いて、
「お稚児さんへの就任おめでとう。美術室での熱い密会が食堂で話題だ」
 まったく誰が見ているやら。「残念ながらジギーはお前に夢中だよ。伝言。君のブーツでビールが飲みたい」
 背筋がぞわついたらしくナオトは腕をまわし身をくねらせた。入口でサンゾウと入れ違いになった。これから食堂に行くのだろう、手ぶらだ。
「面会だよ。もう会った?」タイチに言う。
 Jだと思い、当惑ぎみに、「中?」
「さっきまで中にいたけど……」と彼は振り返り、「いない。そのへん歩いてんじゃない? 例の後輩の美少女だけど、ちょっと変だね、あの子」
「ああ」安堵してうなずく。「サクラか」
 おい、となにを思ったかナオトがサンゾウに掴みかかる。また些細なことで喧嘩中なのだろう。タイチは外に出て、寮の周囲を歩いた。蔦の葉に埋もれるように、私服の佐倉沙耶【サクラサヤ】が立っていた。タイチがそこまで来ると、予めわかっていたかのようだった。
 ことさら笑みを浮かべて近づいた。「やあ、元気?」
 彼女はこちらを見返すでもなく、「先輩に会いたいと、この女が言いました」
「……え?」
 タイチ、タイチ、と二階からナオトが叫ぶ。
「ここだよ」
 壁から離れて立木に背を寄せ、二階から姿が見えるようにする。ナオトは廊下の窓から顔を出していた。
「サンゾウをぶん殴ってやった」
「なに喧嘩してんのさ」
「お前」彼は愕然と、しばし言葉に詰まった。「お前、知らないのか。県北樹海で鞄と遺書が見つかった」
「なんの話? 樹海になら遺書くらい……」
 自殺の名所だ。はたと、タイチはサヤに視線を向けた。すぐ目の前に立っている。再び二階のナオトを見上げ、
「誰の」
「お前の後輩」
 背後から肩を掴まれた。タイチは跳び上がりかけた。
「騒がず、もっと後ろに」
 Jだった。立木の枝のなかに姿を隠して、長い腕をタイチへと伸べている。
「……いったい、いつから」
「声が高い。ここ二日ほどは、ずっと君の近くに。お稚児さんへの就任おめでとう」
「やめてよ」
「そのまえは四国の神社で古文書に囲まれていた。いま君が目にしているのが、まさに濡女の隠蔽的擬態だ。対象に近づきやすいものの屍体を選び、それを素材に、その生前の姿へと擬態するということを繰り返す」
「擬態? ……じゃあ、あれは」
「君たちの目には、生きている少女として映っているかもしれない。しかし私の目には、腐りかけた縊死体が二重写しだ。操っているのは濡女だよ」
「サクラ、死んだの?」
「残念ながら生命活動は停止している。濡女はきっと、細胞に刻み込まれた記憶を読み取るんだろう。あれは君の後輩の残像だよ」
 タイチはサヤの姿を見つめた。くるくると表情を変えながら喋る、いるだけで場が華やぐようだった少女に、いまこれといった表情はない。悲しみは湧かない。まだそういった段階ではなかった。
「僕はどうすれば……ていうか、Jのこと信じてていいのかな。Jもペールだって聞いた」
「カンナの父からでも吹き込まれたか。いかにも私は融合型【フュージョン】だ。なんの問題がある? しばらく君の肉体に間借りするよ。込み入った話はそれからだ」
「どうやって」
 聞き返すが早いか、視界がはじけたような感覚が生じた。
 覚醒感と、裏腹の眩暈。立っていられない。しかしタイチが倒れるよりさきに背後で、Jの長身がばさりと木陰に倒れこんだ。
(宙にでも浮かんでいるつもりで、みずから手足を動かすのは諦めたまえ。あまりに不快で耐えられないようなら、しばらく眠っていてもらうが)
 頭のなかにJの声が響く。いや、夢のなかで、夢みながら眠っている自分を意識しているような感覚だ。幽体離脱感とでもいうのか、タイチの肉体でありながら、タイチの意識のほうがJの声より外側にいた。
 タイチはわざと手足を動かそうとしてみたが、肩透かしを食らったように意識だけが上下して、肉体はまったく無関係な動きを示した。Jが操作しているのだと気づいた。
(困るよ、こんな……)と抗議しようとした。しかし唇も舌も動かない。(喋れない)
(そうやって言いたいことを頭のなかで言葉にすればいい。それで伝わるよ)
「タイチ、なにが起きて……」ナオトがようすを見に外に出てきた。脱け殻になり転がっているJを見つけ、「こないだのおばさん?」
「おばさんと呼ぶな」J……いや“タイチ”が鋭く言う。声はタイチなのに口調はJだ。「立ち眩みだろう。じきに気がつくよ。なかに運びこんでおいてくれ」
 高圧的な口調にナオトは驚いた顔で、「お前は?」
「ちょっと出掛けてくる」
 ナオトはサヤのほうにも視線を向けたが、小首を傾げて、誰? と“タイチ”に訊いただけだった。亡くなった人がそこに立っているはずがないという思い込みからだろう。
「友達だよ」と答えたのも、むろんJだ。
 ナオトは腰をおとしてJを抱えた。立ち上がり、「意外と軽いや。でも救急車、呼ばなくていいのかな」
「呼ばないでくれ。しばらく休んだら目覚める。よく失神する体質だとか」
 

アクアポリスQ#24

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月23日(月)14時39分27秒
     3

 美術室の一角に溶き油のにおいが満ちていく。タイチの筆はなかなか画布に向かおうとしない。パレットのビリジアンを不要にこねくり回すばかりだ。人が入ってきた。
「美術部ってのはお前一人なのか」
 ジギーだ。タイチがなるべく見せまいとして伸ばした背筋越しに、彼はカンバスを覗きこみ、
「おいおい、この絵にビリジアンはないだろう」
 相手を見返す。ぼさぼさ頭に、細く尖った顎、どこを見ているのかよくわからない、とろんとした目つき。
「一人ってわけじゃないです。単に出席率が悪くて」
 手厳しいことを言われると予感し、話題を自分の絵から遠ざけようとした。SSSは課外活動に寛容ではなく、倶楽部に入っていると聞くと苦々しい表情をする教師が多い。必要十分な情操教育がカリキュラムに含まれているというのがその理由だが、体制批判につながりそうな芽は未然に摘んでおきたいという本音が、自主的集会を禁じた校則などに見え隠れしている。学校のバックアップをろくに受けられない部活は、いきおいどこも同好会レベルだ。いずこも部員は少ないし、これといった目標を持ちえないからだろう、活動ぶりにも覇気がない。
「右上の三角を塗ろうとしてるんだろ? ほんとにビリジアンか」
 ジギーの読みは的中している。やはり凡人ではない。タイチはどぎまぎしはじめた。
「まずいかな」
「あえてバランスを崩そうとしてるんなら止めないよ。まあ俺ならそこは無彩色かブルー系に抑えておくけどな」
「ブルー系は苦手なんです」
 ジギーはすき気味の前歯を見せて笑った。「そのわりにゃ絵具箱に青ばかり並んでる」
「……使わないから残ってるんです」
「使わないんなら、俺にくれ」
 タイチは眉間に皺をよせ、「もう古いから変質してますよ、きっと」
「怒るな。冗談だよ」
 手近な椅子を引き寄せ、背もたれを前に馬乗りになった。
「まあ、お前の作品なんだから好きに描けばいいさ」
 その科白がタイチを奮い起たせた。筆のビリジアンを乱暴に画布に塗りつける。
 あーあ、と嘆息された。「主題が変わっちゃった。郷愁に潜む不安ってとこか。いや、それもいいだろう」
「僕の絵ですから」
「訊いてもいいか。なんで抽象にこだわる? まさか抽象のほうが高級だと思ってるわけでもあるまいに」
「描きたいものを描いてるだけです」
「こないだクロッキー帳を見せてくれただろう」
 見せたわけではない。下絵のスケッチブックの下に重ねてあったのを、ジギーが勝手に開いて眺めたのだ。
「あっちはのびのびと愉しげだったのに、カンバス上の構成となると途端に息苦しい」
「あっちは遊びです」
 速写は、たしかに自分でも得意だと思っている。ただ目が捉えたとおりに木炭を走らせればいい。対象が動いてしまって追いつかなくなったら、そこで終わりだ。描いているあいだはなにも考えていないし、結果を反省する必要もない。ただ描くという行為に酔えばいい。だから油絵の作業に倦んだときのタイチはよく窓を開け、中庭の手入れをしている生徒など速写しては気分を晴らした。
「油絵は仕事か」ジギーは意地悪く訊いた。
 タイチはわざと生意気に吐息し、「向き不向きと目指しているものが合致しないとき、鹿垣【シシガキ】さんならどっちを優先しますか」
「考えるまでもないよ。俺は自分に向いたことしかやらない。向かないと感じた瞬間に手を引くようにしている」
「よく諦めがつきますね」
「お前だってブルーを扱うのを諦めてるじゃないか。それでいい。諦めも才能のうちだよ。赤ん坊が人の注目を集めたいとき、わっと泣くだろ? 技術もなにもない。しかし誰しもがその声にはっとなる。小手先の表現技術なんか情動には敵わんよ。だから俺は泣くように描く。あるいはしぜんと笑いだすようにな。自分にいちばん楽なやり方で描く。そもそも俺にとっては絵もピアノも数学も趣味なんだよ。つまり結果を出す必要がない。なのに、なんでわざわざ自分に向かない方法をとって苦しむかい。お前にとっての絵がどうなんだかは知らないが」
 あれほどの腕前を持ちながら絵を趣味といいきるジギーの思いきりに、単純に感心した。タイチにとっても、むろん趣味としかいいようがない。
 僕には言えない、と内心で呟く。ジギーに勝る部分があると思うからではない。素朴な執着心がそれを阻害するのだった。
 画布に向かい、溶き油のにおいに包まれて生きてみたい。
 画家と呼ばれてみたい。ギャラリーに、美術館に飾られた、立花太一の作品を一度でいいから見たい。
 想いが高ぶり、なんでSSSになど入ってしまったのだろう、あっさりと母の言葉に従ったのだろうと悔やむ夜がある。しかし一時の高揚が過ぎてしまえば、学校の成績以外に抽んでたところのない自分に、母が学歴という武器を持たせようとするのは順当なことじゃないかと改めて気づいて、悔恨に、感謝の念がとって代わる。
 いかに手先が器用といっても、ジギーの神業的な器用さには遠く及ばない。ましてや幼いサイトがあっさりとものした、人の仕業でありながらなんの作為も感じられない、まるで海に描かされたような絵……それを思い起こすたび、描くべきものを持たない自分が恨めしい。
 ジギーの絵は古典の模倣だ。タイチが見抜くまでもなく彼はそれを自覚して、絵は趣味だと嘯く。しかし超絶の模倣だ。彼の強さにタイチは憧れた。
「どっちにしても、頭で考えた理想になんかこだわんないほうがいいぜ。どうせ他人のようには描けないんだから」
 そう言いながらジギーは立ち上がって戸口に向かった。振り返り、
「同室のナオトくんによろしく。彼にこう伝えてくれ、君のブーツでビールが飲みたいと」
「病気になりますよ。あの、なにか用事があったんじゃ」
「その絵の進捗状況を見にきただけだよ。それさ、もはや逆さにしたほうがいいと思うぜ」
 莫迦にされたと感じて舌打ちしたが、ジギーの姿が見えなくなってから念のためイーゼルの上でひっくり返してみると、表層で暴れているようだったビリジアンが奥行に変わり、既存の図形群には上昇の動きが生じ、最初からその効果を目指して描かれた作品に見えなくもなかった。
 問題は、絵がじつは逆様だということだったが、抽象的な構成だから誰にもわかりはしない。ただしタイチにはわかる。ジギーにもわかる。タイチは頭を抱えた。
 パレットのビリジアンに他の色を混ぜてみる。カンバスの上下を元に戻してみる。また逆さにしてみる。立ち上がって室内をうろつく。クロッキーで気分転換しようかと、窓に近づいてみる。しかしこんなときに限って、中庭には人っ子ひとり見当らない。
「乾燥だ。乾燥」
 タイチは独りごとを言ってカンバスを準備室の壁に追いやり、イーゼルを畳んだ。ほかの道具も片付けてブレザーを羽織る。自分の上着ではなく、やや大きい。
 SSSに出入りしている優秀なランドリー業者も、いったん汚水漬けになった制服には難儀しているようだ。土曜日、あみんに出掛けるまえ一式を預けたときは、週明けまでになんとかすると言われたのだが、月曜の朝、私服のままで受付に出向くと、まだしばらくかかると告げられた。仕方なくズボンだけは替えを履いて教室に入り、担任に相談した。休憩時間にこの上着とネクタイを持ってきてくれた。開校前の試作品を、転入者に貸し出すため温存してあるのだという。汚水臭くない代わりに強い防虫剤のにおいがした。
 間もなくナオトと廊下ですれ違った。彼の上着は身に合っていたが、生地がなんと臙脂と黄と黒の縦縞で、まるで道化師に見えた。ナオトもそう感じていたらしく、両手を広げて足を小刻みに動かし、球乗りをしている真似をした……。
 いったん学校を出た。最寄のケータイ会社の営業所で、月曜に預けたケータイの様子を訊ねるためだ。タイチかケータイかの運が良ければ、そろそろデータ修復されて営業所に戻ってきている。
 溜めこんできたデータが入っていないでは、持ち歩いても仕方がないと思い、僅かな追加料金をけちって代品を断った数日前の自分を内心で罵倒する。ついでにケータイの発明者も。ケータイなど持っていたがゆえの面倒ごとの、肝心なときにケータイは使えない。修理が完了したかどうかを徒歩で確認にいくなんて、まるで前世紀の半ばだ。
 煉瓦の舗道を歩みながら、タイチはふと不思議に思う。才能ってなんだろう。
 表現ってなんだろう。なぜ僕はそれに憧れる。
 サイト、サイト、君はどこにいる。
 いったいなにが君に、あの美しいものを描かせた?
 

アクアポリスQ#23

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月23日(月)09時21分23秒
編集済
   タエが部屋のドアをノックしてきた。
「タイチ、タイチ、起きてる? 加土さんが」
 タイチは本を閉じ、ベッドから起き上がった。まだ眠ってはいなかったが、すでに夜中だ。
 ドアを開け、「カンナ?」
 タエは怪訝そうにかぶりを振った。
 玄関モニターの前に行く。画面にはカンナの父親が映っていた。
「……はい」
「タイチくんかい? 深夜に申し訳ない。ちょっと話があるんだけど」
 スウェットスーツのままドアを開けた。加土氏の背後にはカンナの姿もあった。タイチが覗き込むと視線を逸らした。厭な予感がした。
「そこのパティオまでいいかな」
 サンダル履きで外に出た。カンナの父はパティオのベンチにタイチを坐らせ、自分も隣に坐った。カンナは離れたベンチに坐った。
「カンナから聞いたんだが、Jと名乗る女性と接触しているとか」
 タイチは黙ったまま頷いた。カンナの父は新聞記者だ。
「彼女の正体は知っているのかな」
「このアクアポリスの設計者だと聞きました」
「うん、それは事実だ。本名は聞いた?」
「本名も戸籍もないって……」
 加土氏は苦笑しながらスティック端末を取り出し、「そんな人間がアクアポリスの設計を任されるもんか。本名も戸籍もちゃんとあるよ。社のデータベースでも確認できた。本名、秦【ハタ】ハンナ。母親がドイツ人だ。十代にしてドイツとアメリカ合衆国の三つの大学を卒業した、まあ大変な天才には違いないね。卒業後は建築理論の分野で目覚ましい実績をあげ、まだ二十代のうちに独自理論の集大成とでもいうべきアクアポリスを設計。実地経験の乏しい彼女がなぜそんな巨大プロジェクトを一任されたのか。これは僕の私見だが、Q市復興プロジェクトにはもともと実験性を優先する側面があった。旧政府は憑かれたようになんらかの発見に急いており、そこにうってつけの実験場が出現した……つまりQ市の災害だね……ということのように思える。ひょっとすると旧政府は空虚点の到来を予期して、それを遠ざけようとしていたのかもしれない……いや、それはさすがに憶測が過ぎるな」
 彼は喋りすぎたとでもいうように、端末を持った右手で鬚の浮いた顎をなでた。まるっこい顔立ちも肥満ぎみの体躯を着古したポロシャツで被っているさまも、細面でお洒落だったタイチの父とは似ても似つかない。しかし少年にも女性にも似合わぬちょっとした仕種や言葉つきに接するにつけ、自分の家庭が欠いてきた存在がここにいるのだと感じ、もし彼が自分の父親だったらまた別な見え方をするんだろうか、二十年三十年後の自分も彼のような雰囲気を漂わせているのだろうか、といった想像がタイチの脳裡をめぐるのだった。
「結局のところ」タイチは意味もなく声をひそめた。「空虚点ってなんだったんでしょう」
 氏は自嘲するように薄笑いして、「君が知っている以上のことは、僕も知らない。大きな隕石が地球に墜ちてきて、どこかに消えた。鴉や数種の昆虫が大発生した。日本……いや世界じゅうがこう感じはじめた。なにかが起きつつある。今こそその時だ。たしかに、科学の複数の分野で同時多発的にパラダイムシフトが起きた。モンスタレーションの確認もその一つだ。国会でそれが起きた瞬間、連綿と続いてきた日本の政治システムは解体した。各地に勃発した内戦を鎮めるという口実で多国籍軍が入ってきて、泥縄式に統治府が出来た。当時の日本は冷戦終結によってだぶついた兵器の恰好の捌け口と見なされたんだ。一方で永遠に不可能だと言われていた量子コンピュータが完成したとも報じられ、僕らはいったい誰の決定に則して生きているのかわからなくなった。それでもね、職場での軋轢やローンの返済や育児に頭を悩ませ、居酒屋での騷ぎやコンサートや読書に一時の享楽を求める我々市井の者の暮しに、そうそう劇的な変化など起きようがない……不幸にしてモンスタレーションに遭遇でもしないかぎりは。君のお父さんのようにね。ただ、いうなれば世界の色相が、どこかしら変わってしまったというのだけは誰しもが感じて、記憶のなかのその瞬間に、誰かが空虚点という絶妙な呼び名を与えた。それはその年を表す言葉に転じていった。君やカンナは空虚点の感触なんか憶えていないだろうけれど、僕ら年寄りにとってはそんな感じなんだよ。そんな曖昧な空虚点という言葉を、今や紀元のように使っている。滑稽な話だね」
 端末をたなごころに握り込んだまま、胸ポケットからたばこを取り出して喫いはじめる。もともと喘息気味だったタイチの父は、タイチが生まれたのをきっかけにたばこをやめていた。しかし夜気に漂いはじめたアロマは、遠い記憶のなかの父親のにおいと、どこかしら共通していた。
「ハンナに話を戻そう。空虚前一二年、彼女は投身自殺をはかった。理由は、今となっては誰にもわからない」
「飛降り? どこから」
「Q龍。あれはビルの集合体だから、ところどころに恐ろしく深いスリットがある。その一つに身を投げたんだ」
 タイチは言葉を失った。
「一命こそとり留めたものの、脳に深刻なダメージを受けていて、治療しても目覚めなかった。以後十四年間、彼女はひたすら睡り続けたんだ。老化に不自然な部分があるらしいね。その恐ろしく長い昏睡が原因の一つだろう。ところが空虚後二年、彼女はとつぜん目覚めた。十四年間も睡り続けていた人間が、なんと自力で生命維持システムをはずして、病院から脱走し、たった一人で市立ライブラリを占拠してしまった。武装警官隊は素手の彼女に対し無力で、投降を促すために多国籍軍の狙撃部隊が借り出されたほどだった。死傷者は五十名にも及んだ。捕らえられたハンナは、自分は秦ハンナではなくJであると称した。精神鑑定がおこなわれ、彼女は佯狂ではない……狂ったふりをしているわけではないと診断された。よって責任能力は認められず、受刑は免れた。もっともつい先頃まで、病室とは名ばかりの独房のような部屋に幽閉されていたらしい。空虚後二年の彼女になにが起きたのか、タイチくんにも想像がつくだろ」
「……モンスタレーション?」
「その通り。彼女は融合型のペールだ」
 

アクアポリスQ#22

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月23日(月)08時56分6秒
編集済
   チャイナタウンの明るい雑踏へと踏み出し、久々に現実世界に戻ってきたような気分になった。Q龍を振り返って、見上げる。内部ではJが怪物と格闘しているのだ。そのさまを想像してみようとしたが、脳裡にうかぶのはCGシアターで観るような荒唐無稽でかつ清潔な映像ばかりだった。のみならず実際に目にした龍津路での戦いさえも、今は古いモノクロ映画のようにしか思い出せない。
 Jという人物には異様なほどの求心力がある。同時に奇妙な不安定感をまとってもいる……思わせぶりな言動や年齢の不詳ぶりとはべつの次元で。ふたつの要素は表裏一体なのだろう。Jの格闘ぶりが想像できないのはその相手が珍奇な怪物だから、あるいはACEだからというより、彼女自身がどこかリアリティを欠いた存在だからだ。停留所で電車を待ちながら、そうタイチは思った。
 現実の人生はこの電車の待ち時間のようなものだ。いずれ起きることの予想はついてもそのタイミングはなかなか測れない。あとから振り返ってみれば、起きるはずのことが起きるのを、ただだらだらと待っているだけの時間が圧倒的に長い。しかしJの人生は例外らしい。タイチの目にそれは、秀逸なコンピュータ・プログラムのようでもあった。眼前で長年の友人を失ってさえ次の行動を即断して実行する彼女のさまは、本来称美に価するのだろうけれど、あまり人間味が感じられない。彼女が言うところのアクアポリスの危機も含め、いっさいは一本のゲームソフトに包有されたシナリオであり、Jとは与えられた役割を予定どおりにこなしているだけの、意志なき存在なのだと捉えたほうが、まだしもしっくりくる。
 電車がのろのろ運転で近づいてきた。それに乗り込んだが、チャイナタウンを出たあたりで思い直して別方面行きに乗り換えた。
 学校のそばで降り、喫茶あみんまで歩く。
 驚いたことに店は営業していた。銃撃で粉々になったはずのガラスも張り替えられている。本当に張り替えか? 昨日の事件は夢だったんじゃないだろうか。記憶への信頼が急速に薄れていく。茫然と路地に立ち尽くしていると、電柱の陰から制服警官が姿を現して、訊問したげに近づいてきた。厳戒体制。やはり銃撃はあったのだ。吐息をつき、警官には気づいていないそぶりで店内に入った。
 客の姿も平時と同じくらいあった。昨日のことなど知らないのか、雑誌を読み耽ったり、談笑したりしている。蝶ネクタイをした店主がタイチだと気づいて寄ってきた。
「昨日はどうも、たいへんなご迷惑を」
 タイチの父親か祖父ほどの男が、店にはなんの非もないというのに深々と頭を下げた。非があるとしたら、Jたちを連れてきたタイチのほうなのに。
「僕は、大丈夫でしたから」と恐縮する。「お店が開いてたのは意外でした」
「昨日のうちに急ぎで修繕させましてね。人が亡くなったばかりの場所で不謹慎だと思われるかもしれませんが、休んでおれる余裕もないもんですから」
 店主は窓際のテーブルに目をやった。きのうタイチらが居た席からは椅子が片付けられ、テーブルには百合の花束が飾られていた。他のテーブルとの幅が詰められているので、昔からそこに花を飾ってきたように見える。事情を知らない者に死者への手向けとはわかるまい。
「タカコさんは」
 店主はかぶりを振った。「しばらく休むとか……戻ってきてくれるかどうか。無理もありませんが」
 また来ますと言い、一礼して店を出た。タカコの短く揃えられたしなやかな髮やエプロンの紐が交差した背中を思いうかべ、このまま彼女が復帰しなかったらナオトはさぞや気落ちするだろうなどと思いながら、とぼとぼと歩きだし、歩くうち、本当はナオトの心情など心配してるんじゃない、僕自身がもう一度彼女と会い、話をしたいのだとみずから認めた。急速にリアリティを失いつつあるタイチの世界を、以前の確固とした色調と結びつけている数少ない存在が、タカコであるような気がしはじめている。
 ついでに寮に立ち寄った。いつ現れるか知れないJを待ち続けるのに、文庫本の一冊もあったほうがいいだろうと思ったのだ。寮室にはいつものように佐伯三蔵【サエキサンゾウ】だけが居残って、鉄道模型の製作に勤しんでいた。流行らない大きな眼鏡をかけたこの見るからに神経質な少年は、家族との折合いがよくないらしく、滅多に帰省しない。
「ニアミスだね」と机の前から振り返って言う。「さっき美少女が面会に来てたよ」
「……あみんの?」
「あみんに美少女なんかいたっけ」サンゾウは小首を傾げた。たしかにタカコは、清楚な容姿はしているが美少女と呼ばれるようなタイプではないし、そういう年齢でもない。「たしか美術部の子だよ、おさげ髮が背中くらいまである」
「サクラだ」
 退学になった後輩。なんの用だろう。いやそれ以前に、なぜ日曜に僕がここにいるなんて思ったんだ? ……いるんだけど。普通は帰省してアクアポリスにいるのは知っているはずだし、美術部の名簿を見れば家の電話もわかる。電話してみて、うちのどっちかから勘違いしたことを教えられたんだろうか。
 タカコのときと違い自分から会いたかったわけではなかったが、ひどく損をした気になった。仏頂面で読みかけのイナガキタルホをポケットに突っ込み、明日、とサンゾウに言って部屋を出た……。
 また城址公園の藤棚の下に坐り、本を読みながらJを待つ。ざっと最後まで読んでしまい、とっつきにくくて飛ばし読みした篇を読み直している最中、顔を上げると間近にJの姿があった。シャツの袖が、今度は反対側も無くなっている。彼女は肩に担いでいたダッフルバッグをタイチに放り、
「すこし手間取った。連中、中身をばらして売っててね。揃っていると思うが、いちおう確認してくれ」
「……ありがとう」
「こちらこそ」
 Jはすでにノートを抜き取っていた。最初の頁を開いてタイチに向け、
「これは借りてくよ。君の言うとおり、なかなか面白い絵だ」
 ただバッグに入れっぱなしで、わざわざ開いて眺めることをしなくなって久しい。その青一色の絵……エンプティの手遊【てすさ】び……はタイチの心を急に曇らせた。
 本当は、絵ですらなかったのかもしれない。
 サイトはただ、クレヨンの塗り心地を確かめたかったのかもしれない。
 タイチは母親にねだって数本の油絵具、パレット、F4の張りカンバスなどを買ってもらい、画布の上にその絵を模そうとした。本格的な画材を使えばそれ以上の「作品」に仕上がるのではという、浅はかな期待があった。コバルト、セルリアン、ウルトラマリン、インジゴ……。実際には様々な色を渦巻き状に塗りたくり、さらにその全面を青や群青で塗りつぶしてあるサイトの絵を、複数の絵具で「そう見える色」に塗り分けて再現しようとした。
 誕生しはじめた「作品」はブルー系の色見本のようだった。やはりサイトがやったのと同じ工程を踏まねばならないのだと思い直して、母親に基本色のセットもねだった。手本の、青クレヨンの下に透けて見える色を追い、カンバスにそのように塗りはじめたが、色はどれも濁った。上に青を重ねれば解決するかもしれないとその片隅で試すと、いっそう濁ってパレットよりも汚くなった。
 冷静に乾燥を待ちきれなかったこと、絵具の溶き具合のまずさなど、今は色々な原因を考えつくが、そのときはまるで悪い魔法をかけられたとしか思えなかった。幼児の頃から呑込みのよさや手先のききを褒められ続けてきたタイチが、初めて自分の不器用さに身悶えた……。
 タイチはダッフルバッグを開いた。中身は乱雑に詰め直されている。しかしざっと検めてみて、欠けている品物は無さそうだ。
「よく揃ったね」
「彼らはちゃんと憶えてるんだよ、プロだから」Jは藤棚から離れていった。「また会おう」
「あ」と顔を上げる。「こっちからの連絡はどうやってとればいいの?」
「とれない」と彼女は言い残して、木陰に消えた。
 

アクアポリスQ#21

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月23日(月)08時01分34秒
編集済
   見物人たちから新たなどよめきがあがった。タイチが巨猿のほうを顧みると、そこには大きな血溜まりと襤褸をまとって横たわった、小さな老人の姿があった。眼窩から血が流れ続けている。
「人間に戻ってる」
「ショウジョウが新しい居場所を求めて彷徨い出したのさ」
 Jはタイチの腕を掴んで引いた。猩々【しょうじょう】という字面こそ脳裡に泛んだものの、なにを意味する言葉だったか、とっさには思い出せない。
「あの占者は稀薄者【ペール】だ。ルーラのほうが上位にいるから、汎用のメッセンジャーで簡単に顕在化する」
「さっきの加土カンナがむかし言ってた、僕らは全員ペールなんだって」
「ある意味でそれは正しい」
「でも僕はいまモンスタレーションを見た。そうでしょう? 統治府は対策に失敗したの?」
「モンスタレーションの危険は統治府さまが遠ざけてくれたはずだって? そういう間抜けなプロパガンダに踊らされ、必死で特定のテレビ番組を見たり薬を服用している連中は多い。タイチくん、無数もの魔を調伏し、この島国を守護してきた一族の末裔として明言させてもらう。魔はいにしえより容易く人心に忍び込んできた。顕在化のきっかけも多様だ、風邪の原因が多様であるようにね。サプリメントを得られない貧民は怪物化しやすい? じつに反吐が出そうな見識だね。そうやって自分たちは安全だと思いこんでる連中こそ稀薄であり、すでにルーラに操られているんじゃないかな。私はあの占者をペールだと言った。しかし運悪く憑かれてしまった者をペールと称しているだけで、彼と我々とのあいだに医学上の差異などない。結果論なんだよ」
「じゃあ僕や僕の家族にも、モンスタレーションの可能性が?」
「稀薄な魂の持ち主ならね。忍び込んでこようとする魔への対処法は二つに一つ。果敢にはねつけるか、エンプティのようにことごとく吸収するかだ」
 Q龍の薄闇を、Jは走るような速度で突っ切っていく。それでいて躯はまったく上下せず、せいぜい大股ぎみに歩いているとしか見えない。足許に気をつけながら小走りしているタイチは妙に忙しい。
「さっきの技は太極拳?」
「テゴイというのだよ」
 Jはそれ以上を教えなかった。あとで調べてみると手乞【てご】いだった。
 古事記にもその名が見られる古武術。相撲に似ているとも事典にあったが、Jの動きは舞いに近かった。幾つも流派があるのかもしれない。
「ギャングに囲まれたのはどのあたり」
 大井街の雑貨屋の……とタイチは災難に遭った屋上を説明した。廟のなかにダストシュートがあったことも教えた。
「なるほど」
 彼女は迷う気配もなく次々と路を選んでいく。詳しいようだ。
「僕らを追い越してった輪廻しの女の子が、メッセンジャーだったの?」
 Jは振り返って頷き、「ルーラを暴走させるキイだ。ただしあれは電気合成された亡霊のようなもので、濡女などの精霊【スピリット】とは本質的に違う。ACEがミッションと共に送り込んできたのだよ、Jを殺せという」
「僕らの敵は……ACE?」
「ACEはただのシステムさ。統治府もまたシステムに過ぎない。問題は誰がどう操作しているかだ」
 Jはあっさりと言ってのけたが、ゴショウメを殺し、たったいまJをも殺そうとした勢力……彼女の言葉を信じるならば現職官房長官の一族……の掌中に、量子コンピュータがあるというのを認めているのだ。さっき「パターン認識されている」と言った。認識している主体はACEだろう。Jの行動を? 僕の行動も予見されているのだろうか。冷ややかな電流がタイチの背筋を走る。
 見覚えのある雑貨店。老婆。Jは階段を上っていく。タイチも追う。
 モンスタレーション発生の噂はQ龍内を駆け巡っているようだ。昨日は静まり返っていた階段にも通路にも、いったいどこに隠れていたのかと思うほどの住人が這い出してきて、けたたましく目撃を語り合ったり現場に向かったりしている。流れに逆らい階段を上っていくタイチは、ときに下方に押し返されそうになる。Jとの距離が離れる。
 四階の手前の踊り場で、過ぎていく行列のなかに革ジャンパーを垣間見た。赤っぽい色合いに見覚えがあった。
「J、J、掏児がいた」もはや姿の見えない相棒に叫ぶ。
 Jが見えるところまで戻ってきた。「どこに」
「いま下に行った革ジャンパー」
 彼女は手摺に脚を上げたかと思うと、タイチの眼前を落下していった。ほぼ一階ぶんを飛び降りたのである。どういう状態で着地したのか、タイチからは見えなかったが、下方で悲鳴や怒声があがった。そこにJの流暢な中国語が混じる。
 革ジャンパーが駆け上ってきた。タイチは突き飛ばされ、湿った階段に尻餠をついた。刹那、彼は初めて掏児の顔をはっきりと目にしていた。中学生くらいだ。サイトと同年代ということになる。
 Jも上ってきた。
「追わないと」
 と慌てて立ち上がったタイチに彼女は、
「すこし泳がせる。きっと仲間にケータイを掛けまくるよ。そのほうが好都合だ。君が穴に落された廟が溜り場だろう」
 屋上に出た。一見したところ無人だった。
「誰もいない。廟の中かな」と、そちらに近づこうとするタイチを、
「迂闊に動くな」とJが制した。「君は見物していればいい」
 程なくして廟の扉が開き、なかから数人の男たちが出てきた。最も躯の大きな一人は、きのうタイチを功夫のポーズで脅した男だ。背後のドアからも、ぞろぞろと若者たちが流れ出してきた。総勢二十人あまり。見たことのある顔、ない顔。掏児の少年もいる。
 Jは見回しながら、「誰がいちばん強いと思う?」
「廟から出てきた大きいの」
「あれは見た目だけだ。いちおう訊ねてみるか」
 Jは中国語で叫んだ。腕に自信のある者は前に出ろとでも言ったようだ。
 大男の横に立っている髮を金色にした中年男が、ぼそりと声を発したのをタイチは聞いた。別の一人……タイチくらいの少年……が、拳銃を手に進み出てきた。手製か密造品らしい、タイチの目にも不格好な代物だ。
「なるほど、手強そうだ。暴発しなきゃいいが」
 Jはなんら臆することなく少年に近づき、またも舞うように両腕を広げて、片足立ちになった。少年が慌てて拳銃を正面に構える。Jの足先がその手首をとんと蹴り上げると、拳銃は彼の手のなかで回転し、銃口が本人に向いた。その手をJの両手が銃ごと抑えつける。少年は我的天【ウォデティアン】と叫んで頭を下げた。
 Jは銃口の角度を変えた。金髮男の頭がその延長線上にあった。Jがなにか言う。男は両手を上げた。Jは少年の鳩尾を膝蹴りした。少年は倒れ、嘔吐した。
 拳銃はJの手に残った。照準を定めたまま金髮に近づいていく。二者のあいだで何度か言葉が交わされた。男が号令じみた声を発し、掏児の少年を含む何人かが屋上から走り去った。
「タイチくん、私の近くに」Jは顔を金髮に向けたままだ。「バッグはきょうマーケットに卸したそうだ。買い戻してくるよう命じたが、もし売れてしまっていたら、私はこの男の躯に銃弾を撃ち込むと宣言した。どこがいい?」
 金髮が膝を落して抗議するように喚いた。すこしは日本語がわかるらしい。
「……撃たなくていいよ」
「そうはいかない」
「じゃ、なるべく命に別状のないとこ」
「君は甘いな。長生きできないぞ」Jの微笑はすぐさまかき消えた。「廟を見ろ」
 視線を向ける。扉の間のくらがりに少女のシルエットが仄見えた。
「メッセンジャー?」
「今度は誰を変身させようというのかな。もう一暴れせねばならんようだ。君は公園にでも戻っていなさい」
「手伝うよ」
「いったいなにを? 足手まといだ」
 廟から車輪が転がり出てきた。影だった。にもかかわらず立体感がある。それ自身が地面を転がってくる。金髮男の背中に当たって、消えた。
「立ち去れ」とJが鋭くいい、中国語でもなにか言った。
 タイチはドアに向かった。誰も手出しをしなかった。ドアの手前でどよめきを耳にし、振り返る。金髮男の頭部はすでに肥大化し、長く伸びた腕がかたわらの大男に絡みついていた。
「早く」とJが、こちらを見てもいないのに叫ぶ。
 気配でわかるらしい。タイチは階段を駆け下りた。
 

アクアポリスQ#20

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月23日(月)07時15分37秒
編集済
   レストランに入るほどの所持金はなかった。カンナも持っていない。彼女は久方ぶりの外出に緊張するあまり、財布を持ち忘れていた。交通費はタイチが払っていた。
 だらだらと駅に彼女を送ってる中途に、ホットドッグとプレッツェルを売る屋台があった。
「あれにしよ」とカンナが言う。「久しぶりに食べたい」
 ホットドッグといってもふにゃふにゃのパンに歯ごたえのないソーセージを挟んであるだけの代物で、飲みものなしに嚥下するのは難しい。いったんかちかちになっていたプレッツェルに焦げ目を付けたほうは、もっとひどい。紋章のように結び合わされた形ばかりは優雅だが、実体は皮にだけ塩味がする、硬化したスポンジだ。カウンターに並べられたプラスティックボトル入りのマスタードやケチャップを塗り続けなくては、とても食べきれない。そして食べるのに時間がかかっただけ、防水紙に包まれた茶色い物体は急速に硬度を増していくのだった。
「いいよ」
 と、しかしタイチはほっとして頷いた。ひどい屋台にも美点はある。安いのだ。
「どっち?」
「プレッツェル」
 カンナは屋台の前に置かれた赤いベンチに坐った。タイチはホットドッグにした。および二人ぶんのコーク。金を払い、それらを抱えてベンチに掛けた彼にカンナは、
「私、べつに役に立たなかったね」
「役に立ったよ。いろいろ思い出してくれた」とプレッツェルを差し出す。「なにより、僕が心強かった。Jのことは信頼してる……というか信頼しようとしてる。でも僕ひとりじゃあ不安なんだ」
「役立たずだよ」
 カンナは自嘲したが、かすかに頬を緩ませていた。
 彼女をトラムラインの駅まで送り、タイチ自身は路面電車に乗った。
 電車がチャイナタウンに入って速度を落とす。ドアが開け放たれる。周囲にたむろしていた小学生の一団が路面めがけて飛び出していき、初めてここいらの子供だったのかと気づく。代わりに飛び乗ってくる若者や、主婦ふうの女。老人もいる。
 Q龍に最寄りの停留所で電車を降りた。どのあたりでJを待てばいいのだろうか。通りに向かって羊歯の葉のように突き出した軒や看板を見渡す。医者の「醫」や「診所」という文字が目立つ。闇診療所が寄り集まった一角だ。Q龍での開業はどこにも申請のしようがないのだ。安く堕胎できるので貧しい娼婦が集まるといわれている一方、難病に対抗する独特のノウハウが蓄積されており、世界中の富豪がひそかに治療を受けにくるとの噂もある。
 車道を渡ろうとしていたら後ろから肩を叩かれた。振り向いた瞬間、どこの青年だろうかと思った。顔を見るとJだった。思えば今日は、初めて目にするその姿だ。テンガロンではなく、学帽か船員帽のようなフェルト帽子を被っている。サングラスも前とは形が違う。
「よく見つけましたね」
「同じ電車に乗っていたんだよ」
「ずっと尾行してたの?」
 Jは答えず、「龍津路から入ろう。もし見覚えのある顔があったら教えてくれ」
 中等部時代のタイチがびびって引き返した路地だ。入口までJは足早に、往来を巧みに避けながら進んだ。躊躇なくQ龍の内部に踏み込んでいく。タイチも追う。
 腐臭まじりの湿った空気も、各所にずれが生じているためパースが合っていないように見える暗い景色も、古い記憶のままだったが、昨日今日と重ねてQ龍に入り、体が慣れはじめたのか、その異景にタイチは幽かな懐かしさを覚えた。無数の貼り紙。落書。むかし訪れたときより人通りが多い。今も人口が増し続けているのだろうか。
 人ひとりしか通れそうにない路地の向こうに、驚いたことに食品工場が見えた。ここでなら衛生法を無視できるからだろう。粉まみれの作業場で、粉まみれの職人が立ち働いている。点心でもつくっているようだ。
 小学校か、その名残らしき建物がある。ガラスの割れた窓の向こうに重ねられた木製の椅子や机が見えた。歩きながら覗いているとガラスの表面を黒々とした影が横切った。
 はっとなって視線を返す。ワンピースを着た髮の長い少女が、自転車の車輪を転がしながら勢いよくJを追い越していくところだった。場違いなその遊戯に、タイチは眉をひそめた。Jが歩みを止めずに振り返る。
「タイチ、離れてろ」
 意味がわからず、ただ立ち止まった。
 辻占いのテーブルが出ている。白い顎鬚をはやした占者がその向こうに坐っている。Q龍の占者とはいえ物々しさはなく、分厚い老眼鏡をかけニット帽をかぶった小さな老人に過ぎない。Jがその前に立った。
「失せ物だね?」と老人が日本語で言った。
 Jは可笑しげに、「そう見えるかい、コンパイラ」
 老人はびっくりしたように彼女を見上げ、顔をひどく赤らめた。憎々しげに表情を歪める。まだ歪む。まだまだ……。
 ずいぶん表情のゆたかな老人がいたものだとタイチは呆気にとられ、そのうち、自分はホログラムかなにかを見ているのだと思いこみかけた。なぜなら老人の顔はいっそう歪み続けてまるで別の生物のようになり、その大きさまで変化しはじめたからだ。白い鬚は赤く変色しながら頬へと広がり、鬣【たてがみ】のように張り出した。倍にも膨らんだ顔から老眼鏡が転げ落ち、ニット帽がはじけ飛ぶ。
 マント狒狒? いや顔つきはそうだが、躯つきはむしろオランウータンに似ている。
 それでいてテーブルを押し倒し立ち上がったその姿は、かつて動物園で眺めたマウンテンゴリラのサイズを凌いだ。はち切れそうな衣服がいささか滑稽だったが、やがて各所が裂けて分かたれ、赤褐色の毛むくじゃらの身に襤褸がまとわりついているだけになった。
 タイチはようやく、自分が見ているものがモンスタレーションだと気づいた。間近に見るのは初めてだ。異景慣れしたQ龍の人々もさすがにどよめき、ある者は叫びたて、母親は叫んで子供を抱き、無謀な者たちは逆に寄り集まってきた。
 Jは……と見ると、逃げようともせず片足立ちでゆったりと舞っている。そのように見えた。
 猿が太く黄色い牙を剥く。甲高い咆吼が龍津路に響きわたる。巨体が倒れたテーブルを軽々と跳び越え、Jに被いかぶさらんとする。
 しかし瞬きほどのあいだに、Jは相手と位置を入れ替えていた。巨猿の背後からその頸に腕をまわし、絞めあげる。巨猿は両腕を振り回して後ろのJを捕らえようとしたが、彼女は巧みに身を逃がした。
 猿の手がJの頭をかすめ、帽子が飛んだ。結い髮がほどけて白銀色の奔流になった。息が苦しくなってきたらしく猿は目を剥き、かぼそく一吠えした。巨大な頭が、空気が抜けたように縮こまっていく。
 勝った……? タイチが安堵しかけたのも束の間、猿の萎みきった頭部が異様な変形を始める。植物の生育映像を早廻ししているように、にょきにょきと長く伸びていく。先端が枝分かれして指になる。さっきまで頭だった部位が、気がつけば未熟な腕へと変化している。
 同時に、さっきまで振り回していた腕の一本が萎縮し、根元は逆に膨張して、胎児じみた新しい頭部へと変わりかけていた。もう一本の腕も縮んで脚に、脚だった一本は伸びて腕に。すなわちこの異形の猿は、今、四肢と頭とが一つずつずれた姿に生まれ変わりつつある。
 新しい変化【へんげ】にJも気づいているようだが、とっさには対処を思いつかないのか、すでに腕へと化した部位を締めあげたままでいる。脚から変じたもう一本の腕が飢えた大蛇のように先端をもたげてJの頭を掴み、以前の頭部と同等に成長した新しい頭部が、息を吸いあげながらその喉笛に食らいついていった。
「逃げて」
 タイチは叫びながら、言葉とは裏腹に見物人の間を縫い、Jに近づいていた。
 赤い巨体と、それに上半身を巻き込まれたかのようなJとは、しばらくのあいだ静止を保っていた。近づいたタイチが驚いたことに、巨猿の体重のほとんどを支えているはずのJは、戦いはじめと同じく片足立ちだった。
 積もった雪が崩れ落ちるように、奇妙な立像はふと解体した。音にならない低く鈍い振動が、龍津路の空気を揺らす。
 Jはようやく浮かせていた片脚を地におろし、両の腕を垂らした。右腕がシャツの肘のあたりまで朱色に染まっていた。仰向けに転がった猿の赤ら顔には、笑っているように大きく広がった口、焦点を失った一つの眼球、そして赤黒い血を溢れさせている眼窩があった。血流に涙が混じっているようにも見えるのは、Jに握りつぶされた眼球の残滓のようだ。
「やれやれ」
 Jは自分の服装を見下ろした。シャツの右肩を噛み、その近くを左手で勢いよく引いて袖をちぎった。血に汚れていない部分で手を拭い猿の上に捨て、地面の帽子を拾いあげて乱れた白髪の上にかぶる。タイチを見つけて近づいてきた。見物人たちが怯えて道を空ける。
「パターン認識されてる。急がないと闇雲にメッセンジャーを送り込んでくるぞ」
 

アクアポリスQ#19

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月22日(日)16時33分16秒
編集済
  「浴衣の女性は最初から屍体で、それを濡女が動かして……?」端末を握った手を下ろし、カンナが見えないJに問う。
「そういうことになるね、イサカがあるていど正気だったとすれば。最後の言葉は、潮ではなく牛鬼の聞き違いだろう。ともあれ私の目に、これは濡女に関する最も冷静で詳細な記述だよ。じつはタイチくんを訪ねるまえ、私たちはまずこのイサカとの面会を試みた。しかし三年前に失踪していたよ。生きてはいないだろう」
「統治府が?」とタイチ。
「断言はできない。だがゴショウメは、あり得ると」
「この濡女が接触することによって、サイトくんは牛鬼に変身するんですね、つまり」カンナが再び問う。
「ひらたく言えば、そういうことだ」
「じゃあ、鴎」
「鴎?」
「あの朝の校庭で、タチバナくんが来るまでサイトくんはずっと逃げまわってた。だから彼に近づいたのは鴎たちだけ」
「……鴎だ」とタイチも同調して叫ぶ。「サイトが鴎の群れに囲まれたんです。サイトは消え、あとに鴎の屍骸が。それから、海に牛鬼が現れた」
 Jは沈黙ののち、「鳥獣の屍骸も利用できるのか。よいヒントを貰った。文献を洗いなおす必要があるな。一方で早くサイトも見つけなければ。今はもう十三、四になっている計算だが」
「彼はどうなるんですか。また研究施設に?」
「そんなことをしてもなにも解決しないし、私はそもそもサイト自身には興味がない。厄介な存在だと感じているだけでね。もし彼が吸収しているルーラともども滅んでくれるなら、いっそ死んでもらいたいが」
「まさか、殺すつもりですか」
「いや、サイトが死んでも牛鬼が滅びるわけじゃないからね。それまでの力学が崩れて新しい力学が生じるだけだ。解放された牛鬼がイオ・ミヒに還ってくれるなら幸いだが、すぐさま別のエンプティに吸収される可能性のほうが高い。その別のエンプティを軸に、ニレたちと私の茶番が繰り返される」
「ニレ?」
「顔ぐらい知ってるだろう、現内閣官房長官。Q市復興事業にまつわる利権の大半は、楡一族が握ってきた。私にアクアポリスの設計を依頼してきたのは、彼の父親だよ」
 テレビ画面上に幾度となく見てきた、猛禽めいた鋭い容貌を思いうかべる。話がとんでもない方向に進みはじめたとタイチは感じた。言葉を発しようとすると胸のあたりが震えた。
「……官房長官? ゴショウメさんを殺したのも?」
「その手の者だろう。ゴショウメは地質学の専門家で、最初の復興委員会を形成していた十二人のうちの一人だ。ある者は彼のように統治府の機構に取り込まれ、ある者は事故死、ある者は行方不明……とうとう私一人になってしまったよ。多少は後悔している。私は建設大臣のポストを蹴ったんだ。地位にも富にも興味はないが、統治府内にコネクションを残しておけば別の戦い方ができたかもしれない。復興委員会は、楡一族を出し抜いたんだ。国土を弄んで私腹を肥やそうという彼らの魂胆が透けて見えた。そこで私たちは彼らに従順なふりをしながら、Q市の護符としてのアクアポリスを建造させ、アクアポリス自体にも鉄壁のセキュリティを施した。設計上、あれは広島型原爆の直撃に遭っても姿を保つ。頼もしいだろう? 住民の生命までは保障できないがね」
 はあ、とタイチは息を吐いた。「でも本当にQ市を破壊したいんだったら、アクアポリスなんか関係なく……」
「水爆でも落とすかい? しかし彼らが欲しいのは焦土ではない。野焼きをしてしまったら何がどこから芽を出すか計算できない。さきを計算できない土地に利権は生じない。他の都市の例を見るがいい。ヒートアイランド現象を助長する屏風のようなビル群を拵えながら、同時にそれを取り払えという運動を推進する。そういう手口がいちばん儲かる」
「本当に金儲けのためだけに、楡一族はアクアポリスを……?」
「まあ裏の意図もあるのかもしれないが、表面上はそう。その彼らにとってアクアポリスは破格の存在なんだ。ゴショウメによれば、ACEによってQ市への爆弾テロ、航空機テロ、各種施設の爆発事故などによる被害をシミュレーションするとき、アクアポリスを計算に入れようとするとACEが暴走するという。聞いても私は驚かなかったがね。さらに教えよう。アクアポリスはたとえ海底に沈んでも護符として機能し続けるんだ。あれを完膚なきまでに破壊しつくすには膨大な時間と労力が必要だよ。普通に思いつくようなやり方を重ねていたんでは、ニレの目が黒いうちにその日は訪れないだろう。そこで彼らは牛鬼に頼ろうとしている。アクアポリスの一部を破壊した過去があるからな。ニレはACEを通じて濡女を操作し、牛鬼にアクアポリスを破壊させるつもりだ」
「それをどうやって抑えるんですか」
 するとJは自信たっぷりに、「濡女は私に従うよ。私は道摩法師の末裔なのだから」
 嘆息しながら、タイチは改めて問う。「あなたはサイトに危害を加える気はないんですね?」
「結果的に彼に危害が及ばないとは保証はできない。しかし及ぼすのは私ではないよ」そう言いきったあと、彼女はいくぶん口調を柔らかくし、「君はサイトに友情を感じているようだ。接点は僅かだったろうに」
「というか無抵抗主義者なんです。世の中を変えるにしても、大騒ぎしない穏やかなやり方があるだろうって。もしサイトがひっそりと無事に暮らしてるなら、できればそっとしといてやりたいし」
「平時なら私も賛同する」
「非常事態なんですね」
「ゴショウメは軽々に動く男ではない。まさしく非常時だ。さて、残念ながら私はサイトの顔を知らない。五年前の画像なら入手できると言っていたゴショウメも、もはやこの世にいない。彼の腹心を紹介されてはいるが、今となっては二重スパイの可能性を否定できない」
「僕も、いま会ったってわからないと思いますよ。会ったのは夜で、翌日にはもう消えてしまったし、成長期だから顔も変わってるだろうし」
「たとえほくろ一つでも憶えていてくれてると嬉しいんだが。あるいは声や行動上の特徴」
 タイチはカンナを見た。彼女もかぶりを振り、「遠くからしか見てない」
「見た目のことは僕も……華奢だった印象はありますけど、子供だから当り前か」タイチは一考したあと、「絵を描いてました」
「どこに、どんな?」
「隠れているあいだ退屈かと思ってノートとクレヨンを置いてったんです。そしたらノートに。もう一日、早く会いにきてくれてたら見せられたんですけど。Q龍で盗られちゃったんです。友達が掏児の少年を追いかけてったら、逆に囲まれて、ダストシュートに落されて」
「なるほど。いつも持ち歩いていたのか」
「帰省に使うダッフルバッグのポケットに入れっぱなしでした。青一色の、デタラメっぽいんだけどなんだかいい絵だったから、街ででも出会ったら返そうと……いつかまた逢うような気がして」
「君は絵心があるらしい」
「美術部ですけど、べつに無いですよ」
「その絵、ぜひとも拝見したいね。バッグを取り返そう」
「もう捨てられちゃってるかも」
「捨てる物を盗りはしないだろう。Q龍の人々がそんな無駄はしない。予定外だが足を延ばしておくか。タイチくんは来てくれ。カンナさんには少々危険だ。またお会いしましょう」
 タイチはカンナと顔を見合わせ、それから、「あの、おなかが空いてるんで、なにか食べたあとでいいですか」
 ふ、とJは鼻を鳴らした。「一時間後、Q龍の近くで会おう」
「近くって……?」
 タイチは聞き返したが、なかなか返事がない。後ろを振り返った。
 誰もいない……。
 

アクアポリスQ#18

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月20日(金)12時32分17秒
   浴衣好きの女。統治府。あの夜の女の面影が重なり、他の顔ではあり得ないかに感じられはじめる。いろんなことを知りすぎた、と女は言った。きのうまでお城の下にいた、とも言った。「そのご友人、大学では何を?」
「遺伝子工学です」
 Q市にある統治府の研究施設といえばまずタカマハラが思い浮かぶが、五年前にはまだ存在していない。その前身的な施設だろう。俺は牡丹灯籠よろしく亡霊を抱いたのか? 日頃から怪異譚に埋もれて暮らしているせいだろう、そう想像したところでこれといった恐怖も感慨もなかった。友人の写真があったら見せてほしいと先生に頼もうとして、思いとどまる。研究者としての矜持がそうさせた。俺みずからが怪異に取り込まれたでは客観的な分析もなにもない。写真は現実をそのまま切り拔きはしないし、人の記憶は簡単に修正される。俺が素人写真のなかの笑顔にあの女との共通点を見出して「たぶん彼女です」とでも呟いたなら、類型的な怪談噺の一丁あがりだ。先生は席を離れて店外にある化粧室に向かった。慣れない帯とでも格闘しているのか、なかなか戻ってこなかった。困り果てて帰ってしまったのではないかなどと想像しているうち、卒然と去年の、役立たずと分類した一回答のことを思い出した。鞄から別のファイルを出して確認する。
『お父さんとタカマハラを見にいったとき、白い着物をきた女の人が、おいでおいでをしているので近づいてみたら、女の人は地面をゆびさして、私は虫を見せたいのかと思ってすわって地面をさがして、なにもいないので立ち上がったら女の人はいませんでした。お父さんに話したら、お父さんはゆうれいかなと言ってわらいました』
「イトウさん……去年、東京から転校してきた子です」
 語りかけられて初めて、先生が後方に立っていたのに気づいた。
◆路面電車に揺られ、東へ。風景が郊外めいたのも束の間、また建物が数を増し、高さを増して、やがて前方に未来都市然としたジグザグのピラミッドが形成されていく。中心で夕陽を浴びてぎらついているポストモダン建築が、タカマハラ。なるほど、城だ。計画や設計段階で使われるような、それは統治府内での符丁だったのではないかと俺は憶測していた。女は……いや、あの女ではなく、先生の友人……彼女はその前身施設で働いていた。そしてなにかを知りすぎてしまい、建築中の「城」の下に……? また混乱している。それはパブで聞いた言葉だ。とにかくQ市に城など無い。あるのはあのタカマハラだけ。統治府内の符丁が外に洩れ、子供たちに伝わった。子供の噂は素早い。そして巧みに変形する。洩れたのは符丁だけか? 海に逃げれば助かるというイメージは何を示している? タカマハラ前、次はタカマハラ前に停まります。電車が速度を緩めてエントランスの正面で停止すると、数少ない乗客たちが一斉に立ち上がり、次々と熱気のなかに降りていった。列の最後尾で小銭を数え、料金箱に落とす。それきり足が動かなくなった。停留所に白い浴衣の女がいた。降りられますか? いいですか? 運転士が問う。女は降車口から平然と乗り込んできて、俺に躯をぶつけた。俺はよろけて座席に倒れ込んだ。
「きっと約束を守ってくださいとこの女が言いました」
 約束? 声にならない声で確かめる。
「東京の人たちに伝えてください」
 ……実験場。降りないんですか、という運転士の声。俺は女に頷いた。「わかった」
 すると女は満足そうに、凄まじいような笑みを浮かべて、「この死んだ女はどうにも儘ならないから、私はほかに移ります。さっさと良人【いいひと】を探さないと」
 誰を?
「あちらの名は教えられない。こちらでは誰もがこう呼ぶ……」
 潮、と聞こえたが確信はない。俺が問い返すまえに女は崩れて、ただ泥まみれの白骨ががらがらと車内に散らばった。
 

アクアポリスQ#17

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月20日(金)12時29分9秒
編集済
   女はカクテルを飲み干すと、ああ美味しい、と呟いて、とろけるように俺にしなだれかかってきた。値段を。値段? 朝までだといくらだ。何が? お前だよ、といささか苛立ってその耳に息を吐く。女は全身をもぞもぞと動かした。あら、この女を可愛がってくださるの。そうだよ、いくら払えばいい。ふふふ、お金なんか要りませんと、いまこの女が言った。奇妙な話法に、またしばし戸惑う。じゃあ何が欲しい。東京の人たちに伝えてほしいと。何を? この国は実験場だと……それから同じお酒をもう一杯。
 俺は煙草に火をつけて黙考し、それから、「それ、なんて酒?」
「知らないの」
 通りかかった白人のウェイターを呼び止め、女の空きグラスを指差して「ワンモア」と指示する。酒が来て、俺が金を払い、女はそれを一息に干した。俺は女を宿に連れ込んで、抱いた。すこし眠って、目を覚ました。女は姿を消していた。はたと起き上がって財布や鞄の中身を確かめたが、何一つ減っているようではない。
◆アスファルトを煮えたたさんばかりの熱気。東京とさして緯度は変わらず距離も近いというのに太陽の色も大きさもまるで違う。斐坂さん、という声に、地面に落としていた視線を上げると、激烈な陽光を浴びてあの夜の女が立っていた。そう錯覚した。浴衣が同じだった。思い返せばあの女の背格好はたいそうこの先生に近い。この行き遅れかけた女教諭は、ありがたいことに妙に俺を気に入ってくれて、なにかと学外で面会したがる。なぜ浴衣なんですかと訊ねると、夕方から画家の誰某先生のお誕生会なんです、ドレスコードが浴衣なの、ご一緒にいかがですかと誘われた。画家の名は失念した。ブルーミングデールズ内の喫茶店に入り、窓際の席で向かい合う。先生は風呂敷包みを解いて青いファイルブックを出した。
「綴じておいてくださったんですね。助かります」受け取って、頭を下げる。
「まえも同じふうなこと。使用済みの備品ですからラベルが残っていますけど」
 綴じ込まれているのは俺が託したアンケート用紙だ。昨年、あてずっぽうに訪ねた城内小学校でまずこの先生に応対されたのは、存外の幸運だったといえる。生徒へのアンケート調査というだけで胡散臭がって門前払いを食わせようとする教諭が多いというのに、そのうえ質問はジンクスや怪異の噂、使用目的は猟奇犯罪との関係性の解明というんだから、分が悪いどころの話ではない。ところがこの女教諭は「そういうの大好きです。出来るだけご協力します」と目を輝かせた。狐につままれたような気がしたが彼女の言葉に嘘はなく、他の教諭も説得して五、六年生の各二クラスで複数回の用紙配布と説明の時間が確保されるよう取り計らってくれた。初回の回答は九割以上が役に立たない。口裂け女のようなマスコミと連動した風聞ならまだしも、テレビで見たストーリィそのままだったり、サーヴィスよくそれらしき怪談を創作して提出してくる子も少なくない。読み慣れてくると、流用されている既存の「型」が透けて見えるようになる。あとの一割に金脈を探す。たとえばこういう回答があった。
『夕方、海の反対方向から風がふいてきたとき、風上にお城が見えたら、息をとめたまま風がやむのを待つか、赤いものを見つけてつかまないと、三日以内に死ぬ』
 誰の体験談であるといった根拠明示のない、物語性も稀薄な、ただジンクスの形態をとっているが、地理的要素があるていど明快で、また夢のなかの論理にも似た奇妙な合理性を感じさせることから、いわゆる「七不思議」に類すると考えられる。「型」は見えにくい。しかし「三日以内に死ぬ」は間違いなく別の結末の代替か、後で生じた尾鰭である。この類似の回答、部分抜粋的な回答が、今年は複数出現した。こういう琴線に触れた回答に焦点をあて、設問を絞り込んだ次のアンケートを作成するのである。ファイルを開き、用紙をめくっていく。同項への回答率は高い。急速に浸透している。予想どおり、死が訪れるまでの時間にはヴァリエーションがあり、ざっと眺めたところ最長は四十九日、最短は「その晩」。いったんファイルを閉じて下方に広がる緑地を見やる。酒嶌城址。幽霊の噂、多数。
「お城というのはそこでしょうか」
「たぶん」帯の下によほど色々と詰め込んであるのか、効きすぎた冷房のなかで白檀の扇子を出し、ぱたぱたと顔をあおいでいる。本当をいえば、たった三日前のことなのに俺はあの女の浴衣の柄を正確には思い出せずにいる。それでいて、先生が着ているのはまったく同じ柄だという思い込みも払えない。「だから夕方は海側の公園に行かないという子もいました。あの、ほら、木の間に明るい芝生が見えるでしょう」
「しかし……お城を、たとえ見ようとしても見えない」天正年間に築かれた酒嶌一族の居城は、空虚前五〇年、昭和でいえば二〇年、連合軍の空爆によって失われたまま一度も復元されていない。今は天守台の石垣と、祓川から水を引いた内堀と、育ちすぎた木々のみがある。夕方の陸風のなか、子供たちがいくら風上に目を凝らしても「城」は見えないのである。再びファイルを開く。なぜ赤いものを掴むと助かるのかという設問には、ぎこちない筆致で「城」は「白」に通じることを説明し、その反対色が赤だからとした回答が目立った。「白の反対色は黒ですよね、普通」
「そうよね」と笑う。「紅白の対比はこじつけでしょう。だって足を海に浸けるだとか、すぐに赤錆を舐めれば大丈夫と……不潔ね……そう書かれたプリントもありましたから。キタくんと……ムレさんたちだったかしら。これはつまり、海へ逃げれば助かるってことじゃなくて?」
「赤錆……」用紙を繰る。たしかに一部の女子の回答に「赤サビ」という言葉が出てくる。俺は小首を傾げて、「たしかに海辺で鉄はよく錆びますが、これは僕だけでしょうか、海のイメージと赤という色彩はどうも直結しない。赤潮とか?」
 また笑う。「斐坂さん、どちらのお生まれですか」
「東京ですが田舎の、いわば武蔵野です」
「もしQ市にお生まれでしたら、きっと直結してましたよ。海岸通を改めてゆっくりと歩いてごらんなさい。日差しの強い土地の海辺というのは、なにもかもが赤茶けています」
「なるほど」海岸通の風情を思い起こして先生の弁に納得する一方で、まったく別のことを考えはじめてもいた。海は「産み」に通じる。生命の源泉……血液。先生は重ねて俺を画家の誕生会に誘った。うつろな調子で返答を引き延ばしながら、この女は俺と寝たがっているのだろうかと想像し、おかしな気分に浸った。声や話し方はフルートのように美しいものの魔女の童画めいた鉤鼻の持ち主で、性的行為とは無縁に生きてきたかに見える。それだけに、抱けば必ず結婚を迫られるという予感があった。自分の仕事を気に入っているようだから、きっと東京に来るとは言わない、俺を引き留めようとするだろう、この奇妙奇天烈な水没都市に。それはそれで悪くないという気がしはじめ、自分が大学にしがみついている理由をことさら数えねばならなかった。道は細々として薄暗いが、まだ袋小路に入り込んではいない。教授は高齢だ。遠からず死ぬ。研究の後継者は俺しかいない。莫迦正直にデータの凡てを提出してきたわけではなかった。一切を自分の名前で発表したがる教授の習性が、いずれ好都合にはたらく。俺には、教授のここ十年間の殆どの説を「修正」できる。先生の浴衣が、俺を動揺させているのだろう。あの女、今夜こそパブに現れるだろうか。
「浴衣?」俺の視線に気づいて襟を直しはじめた。「着慣れてなくて。似合いませんか」
「いいえ。ただ、最近は珍しいですよね、そういう、白っぽいのは」
「最近のじゃないですから。しかも曰く付き。四年……もう五年か……前、学生時代の友達がとつぜん私を家に呼んで、これもあげる、あれもあげるって……そのなかの一つです。すごく気に入ってるって、私はこれがいちばん似合うのって何度も言ってた。そう言いながらくれたんです。奇妙でしょう? そしたら翌週、行方不明になって、いまだ見つからず。ちょっと気味悪いですよね。でも親友だったし、ほかに浴衣はないし、着ないのは勿体ないじゃないですか。大学院を出て統治府の研究施設に入りたてで、とても張り切って見えてたんだけど」
 

アクアポリスQ#16

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月19日(木)15時00分49秒
編集済
  ◆Q市の夏の暑さときたら、人生をまっとうに生き抜こうという気力も、新旧の記憶も、劣情も、何もかもとろけ、溶けきって、路上に流れ出してしまうほどだ。一見そうとはわからないが、よく見ればジグザグに陸地を浸蝕している海によって無数に分断され、同じだけの架橋によって道路の体裁を保っている海岸通から、まっすぐに北へと延びて電車道にぶつかる通称英国街の、異国語飛び交うパブの片隅に空席を見つけてナイロンツイルの鞄を投げ込む。カウンターで現金とエールを引き換え、グラスを片手に戻ると、俺の鞄があったところに白っぽい浴衣の女が坐っている。鞄は向かいの椅子に移動させられていた。白い浴衣の女。ぎょっと足を竦めて酒を床にこぼしたが、何に対してそんなにも驚いてしまったのか、自分でも判然としなかった。いつもQ市に足を踏み入れると、次第に注意力が散漫になり、記憶力が刻々と薄れていくような感覚がある。この都市の気候は人の意識を澱ませる。住人たちも、みなどこか奇妙だ。俺が不運なばかりだろうか、ひどく馴れ馴れしく図々しい人間が多く、ただ無口に過ごそうとしていると鞄の中身まで覗かれてしまう。比喩ではない。宿の主人は俺の妹の名を知っていた。「イチカさんの……」と流暢な日本語で洩らし、それから急いで「妹さんのお仕事は」と言い直した。葉書を見たのだ。妹に書いて出しそびれ、スーツケースに入れてこのQ市まで持ってきてしまった葉書。遠回しに借金を申し込んでいる。認められない経費ばかりが嵩むフィールドワークに、教授の心証をよくしたい一心で飛びついては、借金を増やす。金に困り果てたとき与えられる仕事は、いっそう条件がわるい。悪循環。ぎりぎり調査を続行でき、夜毎エールで思考を鈍らせ自分を無力感から解放できる程度の前金が、週に一度口座に振り込まれるが、予め凡ての使い途を計算してあるように必ず一週間で底を突く。大学からの給与はより乏しい。たまに娼婦の香水を嗅げば消散する。
◆英国街と旧い住宅地の狭間に位置する常宿は、B&B【ベッド・アンド・ブレックファスト】式。シャワー付きの湿っぽい小部屋と「英国街一」の朝食が、朝鮮戦争で勲章を得たという自称親日家の老人と歳の離れたマダムによって供される。マダムのつくる朝食が美味なのは事実だ。伝統的なイングリッシュ・ブレックファスト。ベーコンと卵、薄いトーストにカシスやルバーブのジャム、小さなサラダ、市販のジュース、そして牛乳入りの紅茶。ジュースをその朝の二種類から選べる。卵をスクランブルにするか目玉焼きにするか、目玉焼きならその焼き方も、選べる。それだけしか選べない。しかし腹は膨れるから、昼は屋台の饅頭【マントウ】やマスタードを塗りたくったプレッツェルあたりで済ます。夜はこうして英国街に舞い戻ってきて、褐色のエールと油ぎったフィッシュ&チップス。夜の残りを黴臭い緑色の壁紙に幽閉されて過ごす度胸が湧いたなら、宿まで歩き、ベッドの上でテレビを見ながらジンを呷る。孤独を耐えがたく感じる晩はカルチェ・ジャポネまで足を延ばして娼婦を拾う。橋一つ渡れば旧き佳きフランス。祓川【はらえがわ】という名は年々忘れられ、若い連中には「ドーヴァー」でしか通じなくなりつつある。Q龍【キューロン】にでも踏み入れば、十代前半の少女やこの世のものとは思えぬほどの美少年が買えると聞いた。中華街……と呼ぶにはいささか情緒に欠ける、アジア諸国の繁華街をコラージュしたようなQ市版中華街の、海辺を飾る立体の魔窟。住民の実数は数万にのぼるという。それだけの体重を、あの出鱈目な、行き当たりばったりの建築が支えていると思うと背筋がぞわつく。俺には腰に脂肪をまとった年増がお似合いだ。一昨日、部屋にアラブ系の娼婦を連れ込もうとしていて、別の階段を下りてきたマダムと鉢合わせした。B&Bというのは大抵が元は民家で、しかし階段が二つあり二階は分断されている。夫婦と子供とで住んでいたのを、子供たちの独立後そのように改装し、代わりに下宿人や俺のような短期滞在者を受け入れているのだ。ぎくりとして言い訳に思いを巡らせたが、マダムはただ英語で「彼女も朝食を召し上がる?」と訊いただけだった。ノー、ノー・サンキューと答えて女を二階に追いやる。悪徳にいちいち目をむいていてはQ市では生きられないのだろう。初めてこの都市に滞在した昨夏、明け方、迷い込んだカルチェ・ジャポネの石畳の路地で真白な屍体を見た。屍体だったらモンスタレーションによる恐慌のあいだにずいぶん見たが、皮膚があんなにも真白なのにはお目にかかったことがない。麻の背広を着た、俺と同年輩の東洋人だった。なにかの店の閉じたシャッターに、ミケランジェロ描いた聖人のような不自然な姿勢で凭れかかっていた。警察に拘束されると厄介なので、店のインターフォンを押してその場を立ち去った。男は血を抜かれて死んだに違いない。この都市には吸血鬼がいる。Qは吸血鬼のキューだ。
◆モンスタレーションが、この異形の都市では未だ収束していないのだろうか。あらゆるタイプの同現象が合理的かつ安全な方法で回避され、もはや国内に危険地域は存在しないという統治府発表から二年が経つ。遂に完成をみた量子コンピュータがその方策を学者たちに告げたと噂されているけれど、悪魔憑きのメカニズムというのは進化した電卓に解析できる程度のものだったのか、それともやはり量子コンピュータという代物は、電算機とは別次元の神にでも近い存在なのか。浴衣の女は吸血鬼か? 娼婦か? いずれにしろ魑魅魍魎の類には違いない。俺は女を睨みつけながらエールをテーブルに置き、鞄を椅子から床に下ろそうとした。女が、あら、と大声を出す。腰をくねらせ壁との間を空け、「ここにどうぞ、ご遠慮なく」
 娼婦となれば話が早い。問題は折り合える値段かどうかだけ。横向きにテーブルの脇を通り女の隣に尻をねじ込む。白い浴衣は、香を焚き込めた、いい匂いがした。十人並みの顔立ちだが、高くまとめた髪と浴衣のせいで首筋がすっきりとして見える。
「学者さん」
 ぎくりと、女の顔を見る。いかにも和風で平坦で、その向こうの白人たちと見合わせるとサル目の別の生物のようだ。誰かのケータイが《幻想即興曲》を奏ではじめる。途切れる。
「噂話を集めてるんですって?」
「学者なんかじゃない。ただの使いっ走りだ」正確には、某マンモス私立大学の社会学部助手。ティーチングアシスタントでも教務職員でも技術職員でもない、半端な身分だ。教授や助教授の「役に立つ」のが職務。教授の役に立ち続けたなら一端の学者に昇格できると信じていた。都市伝説の分布と猟奇犯罪発生率の相関関係に目をつけたのは院生時代の俺だ。教授は俺を次期助手に推挙した。未来が拓けたと、俺は本気で思っていたのだ、おめでたくも。
 俺の調査が話題になるような田舎町じゃない。エールを買おうと並んでいるあいだに鞄のノートを見られた。吐息をついて胸ポケットから煙草の箱を出す。
「この女はこのあたりで生まれて育ったの」女は紅いショートカクテルを手にしている。やはり吸血鬼か。「きのうまでお城の下にいた」
 俺はくわえかけていた煙草を唇から離した。城という言葉に反応したのだ。「この女?」
 この女、と女は空いている手で自分の胸元を突いた。「東京の人たちに伝えたがっている。この女は統治府で働いていた。いろんなことを知りすぎた」
「城……というのは酒嶌【さかしま】城のことかな」
 

アクアポリスQ#15

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月19日(木)14時54分56秒
   ……ひいらぎ区の海岸公園から小学校まで突進してって、フェンスもドームも突き破って、校庭のジャングルジムをぶっ潰したよ。嘘と思ったら、あした見てきてごらん。
 ……私の頭のうえ跳び越えたんだから。こんなん暴れ続けたらアクアポリスが沈没しちゃうと思って、善意で警察に通報してやったのに、なぜか親がすっ飛んできてさ、いま部屋に監禁されてんの。
 ……真っ黒で物凄い角が生えてて、とにかく莫迦でかくてさ。全長十メートルはあった。
「攻撃的な形態ではなかったようね」Jが感想をのべる。「私が遭遇するときもその程度だと扱いやすいんだが」
「ジャングルジムをぶっ壊してましたよ」
「彷徨っていただけだろう。牛鬼の実体はスピリットとそれが自在に操る水だと私は考えている。だから恐ろしい。どこにでも侵入できるし高速で渦巻けば鋼鉄をも穿つ。力を蓄えた牛鬼が猛り狂ったなら、アクアポリスごと体内に呑み込み飴細工のようにねじ曲げもするだろう」
 タイチは絶句した。まるで天変地異そのものではないか。意思を持った天変地異……。
「サイトがその種子【シード】ですか。あなたが探している濡女というのはサイト?」
「エンプティがどういうものかはわかっているかな」
 タイチはそっぽを向いたままでかぶりを振った。「噂くらいしか」
「稀薄者【ペール】と空虚者【エンプティ】は似て非なるものである、と目下研究者たちは結論づけている。稀薄の度合が進行して空虚になるのではなく、空虚であることは天賦の資質であるらしい。県東にあるタカマハラという研究施設を……?」
「見たことないです。スラム化してるって」
「ひどいものだ。Q龍よりひどかった。イオ・ミヒにつながるトンネルでも温存されているんだろう。あれはもともと罰当たりな施設でね、エンプティを掻き集めては非人道的な実験を繰り返していたらしい。それがいったん廃墟と化すきっかけになった汚染事故のとき、それに乗じて逃亡した多数のエンプティの一人が、サイトだ。しかしこのQ市……もしくはタカマハラには、エンプティを惹きつけるなんらかの磁場があるらしい。みな遠くへ逃げようとはせず、いとも簡単に身柄を確保されたという。しかしサイトは今もって逃げおおせている。そして死んではいない。生きている」
「なぜわかるんですか」
「ACEがそう告げていると、殺されたゴショウメが。彼によればその予見は易占的とでもいうか、どんな結論を得るかはオペレータ次第という側面があるそうだが」
「占いそのものですね」
「たかが計算機だが、期せずして人智を超えてしまった部分があるのだよ。少なくともサイトがQ市の未来を左右するのは間違いないという。ペールがルーラに憑依されるのに対して、エンプティはルーラを無限にも吸収する」
「ルーラ……ものさし?」
 ふふ、とJは笑った。「それも正しい。主君とも、支配者とも訳せるが、最も的確な訳は憑依体だろうね。状況からいって、牛鬼が目下サイトに吸収されているのは疑いない。睡れる牛鬼を喚び起こし、サイトとの関係性を裏返すメッセンジャーが濡女だよ。牛鬼と濡女は引き裂かれた、元は一つの精霊だ。一定の条件下で再会し、しばしば荒ぶる」
「濡女というのはどんな……やっぱり怪物なんですか」
「怪物というのか、文献をあたってみてもじつに掴みどころがない。しきりに擬態するようだ」
「擬態」
 こと、と後ろで小さな音がした。
「テーブルにスティック端末を置いた。三年前、イサカという私大の助手が、ウェブ上に発表した手記の一部が入っている。オリジナルはとうに消え失せている。ゴショウメの腹心がどこからか当時のキャッシュを見つけてきた。創作、あるいは統治府にまつわる捜査を撹乱するための捏造という可能性は否めない。ただ妙にことの真相を、しかも無神経に記述している部分があって、ゴショウメや私の心には強く引っ掛かった」
 振り返ろうとすると、後ろ手に、と注意された。手探りで端末を探して、握る。
 さきにタイチが、それからカンナが読んだ……。
 

アクアポリスQ#14

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月19日(木)11時30分33秒
編集済
  「カンナさん、借りてきまーす」
 ドアが開くや大声で言って、強引に上がり込んだ。何年ぶりだろうか。
「タイチくん……まあ、まあどこに?」
 カンナの母は驚きつつも明らかに喜んでいる。タイチは昔から加土家に受けがいい。むろんそれを計算に入れての行動だ。
「久しぶりに一緒にデパートにでもと思って」
「あらあら、あら」
 ぴきいいい。悲鳴……いや獣の嘶きに近い声が奥のほうであがり、ひゅん、とドアの一つが閉じられた。カンナが驚いて部屋から顔を出していたようだ。
「入れますか」タイチはドアを指差した。
 カンナの母は眉を八の字にし、「もちろん、手動に切り替えれば」
「切り替えてください。なかで説得します」
 彼女は躊躇したが、やがて腹をくくったという顔つきで壁のコントロールパネルを開いた。タイチはバーズアイの突板で飾られた半自動ドアの、バー状の把手に指をかけた。手狭なユニットの多いアクアポリスでは未だ、いささかレトロなこのタイプのドアが主流だ。
 ドアは動かなかった。カンナが向こうから押さえつけている。タイチは把手から手を離して、
「うぐっ、カンナっ、開けろ。開けろってば」
 カンナの母が首を傾げて口を開こうとするのを、しっ、と押し留める。変わらず手ぶらのまま、
「よーし、こうなったら応援を呼んでくるからな。待ってろ」
 三秒ほど待ってから、再び把手に手をかけた。ドアはあっさりと開いた。ベッドサイドのコントロールパネルを操作しようとしていたカンナが、慌てて駆け戻ってきたものの、タイチはすでに散らかりきった部屋に入り込んでいた。
「ちっとは片づけろよ。足の踏み場もない」
「……騙した」
「騙したよ。話したかったから」
 タイチはカンナの伸びすぎてざんばらになった髮、その下の怒りに青ざめた顔を見返した。
「昨日はごめん。一緒に本土に行って例の人と会ってほしいんだ。僕らの話を信じてくれる」
「やだ」
「アクアポリスがカンナを必要としてる」
 カンナは言い返そうと口を開き、思い直したようにそのまま閉じた。三十秒ほどしてまた開いたが、またなにも発さずに閉じた。ほんと? と訊きたいのだと思い、タイチは頷いた。
「待ってて。髮、とかす」とカンナは掠れ声で呟いた……。
 何年も乗っていないのだろう。勢いよくプラットフォームに滑り込んできたシーチューブに、カンナは身を縮こまらせ、怯えたような表情をうかべた。座席に腰をおろしてからも落ち着かなそうにしていたが、タイチがお互いの五年前の目撃談へと水を向けると、ぽつりぽつりと自分の記憶を描写しはじめた。
 彼女の記憶はこまやかで、映像的だった。巨牛を、タイチ自身はその海を泳ぎ去っていく姿しか見ていない。五年前は聞かせてくれなかった新奇なことをカンナが言った。暴風雨のなかを物凄い勢いで通り過ぎていったので確信はないが、どうも後肢の印象がない。海豹【あざらし】や人魚のごとく、ただ一筋の尾のように窄まっていたという気がすると。
「そういう生きものが猛スピードで……ちょっと信じられないな」
「べつに信じなくていい」とカンナは表情を硬くした。
「そういう意味じゃなくて、通常の生態系のなかの存在じゃないだろうってこと」
「モンスタレーション? だけどあんな途方もない……」
「エンプティはなんにでも変身しうるって噂、ウェブで読んだことがある」
 タイチは乗り込むまえに買ったコークのボトルに口をつけた。残りを飲み干してから、
「つまりカンナは正しかったんだよ。そんな危険な存在を、僕はアクアポリスに匿おうとしていた」
 港でトラムラインに乗り換えた。Jとは城址公園で待ち合わせている。水没被害をまぬがれた地帯に形成された新繁華街の、いわばオアシスだが、酒嶌城そのものは大昔の空爆によって失われてしまい今は石垣と内堀にだけその痕跡をとどめている。
 晴れた日曜の公園とあって家族連れの姿が目立つ。
 飼い犬の会合。フライングディスクに興じる子供。
 草地に敷物をしき弁当を広げている人々を見て、なにかつくってくればよかった、とカンナが呟く。
「あとでなにか食べよう」
 Jの長身を見落とすことはなさそうなものだが、園内をひととおり巡ってタイチはその姿を見つけられず、一方でカンナは靴擦れを痛がりはじめた。
「それ新しいの?」とタイチは訊いた。
 訊ねるまでもなく、カンナのスニーカーは紐まで純白に輝いて、履きじわひとつ無い。
「買ってもらってたんだけど……初めて履いた」
「慣れた靴にすればよかったのに」
「汚いサンダルしかない」
「それでよかったのに」
「やだ。恥ずかしい」
 藤棚の下の丸太を削ったベンチに、並んで腰をおろした。背中をあずけていたテーブルの向こうに人が坐った気配があった。タイチが振り返ろうとすると、
「出来ればそのまま。見られていないとは限らない」Jの声だった。「お嬢さんは加土カンナさんだね、五年前、アクアポリスで最初に牛鬼を目撃した」
 凍りついたようになっているカンナに、大丈夫、とタイチは囁きかけた。頭を動かさないようにしながら視線だけ後ろに流したが、Jの姿はちょうど死角にあった。
「なんでも知ってるんですね」
「その程度のことは最初から調べをつけてある」
「ひとつ、あなたに文句を言いたいことがあります」
「なんだね」
「背中の落書きが取れません。いったい何で描いたんですか」
 弾丸除けと称して背中の半面に描かれた模様のことだ。アクアポリスの家にぶじ帰り着き、お役ごめんと思い入浴したのだが、いくら擦ってもまた石鹸をつけても、梵字と配線基盤を組み合わせたような鏡のなかの図は消えなかった。いくぶん色が薄れて褐色がかった程度だ。そのうえかぶれはじめてでもいるのか、そのあたりの皮膚が火照っていた。
「あの矢立に含ませてあるのは染料なんだよ。人体に害はないし一、二週間で消える。そのくらいは効力を保ってくれたほうが君も安心だろう。カンナさん」
 カンナはぎょっとなって背筋を伸ばした。「は……はい」
「いずれお会いしたいと思っていた。私はJ、アクアポリスの設計者だ。五年前、あなたが見た牛鬼の詳細を語っていただきたい。文献は厭になるほど眺めてきたものの、残念ながらまだ現物を目にしたことはないのでね」
「ないんですか?」タイチは不安になった。
「なにを不思議がってる。イオ・ミヒからせいぜい数百年に一度まろび出てくるだけのスピリットを、そうそう見られるものか。私を八百比丘尼とでも思っていたか」
「イオ・ミヒ?」
「黄泉だよ。すでに量子コンピュータがその存在を立証しているとでも教えれば、想像力に欠ける君らでも納得しやすいか」
「ACEが」
 さあ、とJに促されてカンナは、あのときは颱風が来てて……と幾度となく辿ってきた記憶を、また新たに辿りはじめた。聞いているタイチの脳裡に泛んでは消えたのは、語られている情景そのものより、当夜かかってきたAQフォン越しのカンナの快活なはしゃぎ声だった。
 

アクアポリスQ#13

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月19日(木)10時45分7秒
編集済
  「アクアポリスを護るための調査をしてる人たちが……あ、もう彼女一人かも……とにかくそういう人がいる。訪ねてきて、五年前のことを訊かれた。牛鬼って言ってた。たぶんあれだよ、カンナが見た……」相手の息づかいが消えたような気がして、「もしもし?」
「忘れた」これまでにない、きっぱりした語調だった。
「でも僕は忘れてない。そんな嘘ついて困らせるなよ」
「どう言っても嘘つきだって言われる。私がどんな言葉を口にしても、けっきょく嘘つきとしか言われない」
「言わないよ」
「さっき言った」
「そりゃ本当に嘘ついたら言うよ。ほんとは憶えてるんだろ」
「憶えてるような気もするけど、たぶん夢の話。そっちが勝手に信じただけで」
「牛だったら僕も見た。だから夢の話じゃない」
「じゃあそれでいいじゃない。君が見たものについてだけ話せば」
「僕は遠くからしか見てないんだよ、海を泳いでいくとこ。でも大きな角があるのは、はっきりとこの目で見た。あれは鯨じゃない。それに学校だって変なふうに壊されてたじゃないか」
 再び受話器の向こうの息づかいが消えた。顔を離しているのだろうか、それとも息をとめているのだろうかと考えていると、
「タチバナくん、学校で黙ってたよね」
 タイチは首を傾げた。「小学校のときの話?」
「君さっき、私は忘れたってのは嘘だって言ったね」
「言った」
「そうだよ、嘘ついた。私はあの大きな牛を憶えてる。今でも夢にみるくらい、はっきりと憶えてる。だって私の頭の上を跳び越えてったんだもの。目撃者はほかに何人もいた。君もその一人。でもしばらく経つと大人たちは、あれは暴走車にホログラムを被せた悪戯だったと言いはじめた。目撃者たちも、そうだったような気がするって迎合しはじめた」
「僕は迎合しなかった」
「そう、迎合も反対もしなかった。ホログラムだったと言わない代わり、あれは本物の牛だったとも言わなかった。沈黙によって消極的な嘘をついたんだ。いちばんたちの悪い嘘つきだよ。けっきょく私ひとりが真実を言いはって、攻撃を受け続けた、何年も」
 中学時代の彼女を苦しめた苛めが、そこに端を発するという話は、タイチも耳にしたことがある。本当はさまざまな要因が複合したのだろうけれど、カンナ自身、その一点を強く意識しているようだ。
「違うよ。僕が黙ってたのは……ただ考えてたんだ」
「なにを。海を泳ぐのを見たんでしょ? ホログラム被った自動車がどうやって泳ぐの? この嘘つき、嘘つき、嘘つき」
「考えてたのはサイトくんのことだよ。そっちだけ都合よく忘れたわけじゃないよね?」
 カンナは黙った。しばらく待ったがなにも言わないので、
「僕が考えてたのは、お前が密告して、大人たちに包囲させた男の子のことだよ。彼はどこに行ったのか。彼はどこから現れたのか。牛との関係はなんなのか。カンナさ、牛の話はよくしてたようだけど、密告の話はしてなかったね」
 あああああ、とカンナは遮るような悲鳴をあげ、通話を切った。タイチは溜息をついて受話器を戻し、再びグライドラインの乗降口に向かった……。
 タイチの無事な姿を見て、母は眼に涙をためた。姉も奇妙に優しかった。
 夕食の量はいつもにも増して膨大だった。シチューやサラダや、海老フライまであるというのに、なぜか刺身盛りと押鮨まで並んでいた。魚好きのタイチのために買い足してきたようだ。しかも、自分たちは帰宅を待ちきれず海老フライを食べてしまったからと、刺身と押鮨はそのほとんどを押しつけられた。
 いつもだったら情の押売りと感じて不機嫌になるところだが、その夜のタイチは自分でも不思議になるほど食欲があった。すべては食べきれなかったが、相当な量を胃袋におさめた。
 食後、タエが遠慮がちに銃撃の模様を訊いてきた。Jに言われたとおり、彼らとは相席だったことにし、ゴショウメの死の模様だけを話した。
「きっとマフィアの抗争かなにかだと思うよ」
「内地は怖い。内地は怖い」母は呪文のように言い、タイチを見て、「行かせなきゃよかったかしら。お願いだから危ない所には出掛けないで。学校からもあまり出ないで」
 タイチはうなずいた。微笑して、「わかったよ」
 AQフォンが鳴った。カンナからのような気がし、タイチは腰を上げたが、さきにタエが出た。怪訝な表情で受話器を壁に戻し、
「ノイズだけ」
 また鳴った。今度はタイチが出た。同じ相手からのようで、たしかにノイズしか聴こえない。
「こっちが壊れてるのかな。調子悪い?」
「さっき使ったわよ」とタエ。
 切るまえに確認するつもりで受話器を握り返したとき、
 ……えるか? という語尾が、耳というより頭のなかに響いた。
 Jの口調だとわかった。タイチは耳に受話器を押しつけた。
「そうとうノイジ……が我慢してくれ……リュームを最大にして耳を離……と聴きやすいと思う」
「ボリュームを最大に?」
「……」
 きゅるっというアナログテープを誤再生した音のようにしか聴こえなかったのだが、そう、と言われたと判断して、ボリュームを最大にした。ざああああというピンクノイズが、耳を離していてもはっきりと聴きとれる。やむなく受話器を耳の後ろにあてた。
「有線電話が……からなくてね、周囲で盗聴されないよ……ざと電波を発している」
「もしもし? こっちの声は聴こえますか」
「聴こえて……明日、本土に来られるか。話の続きをしたいが電話では難しい」
「不可能じゃないですけど、どちらかというと、こっちに来てもらったほうが」
「それは避けたほうが無難だろ……クアポリスの設計者が、このところ行動を共にしていたゴショウメが殺された直後にアクアポリス入りとあっ……友達が住んでいると申し開いても信じてはもらえまい。とりわ……たしを狙っている連中には」
 タイチは声をひそめ、「あの、おばさんの動きは、もう敵に……?」
「……しは目立つからね。目立たたない姿で君に接触して……かったんだが、信頼を得るのが第一だと思っ……実像を見せた」
「目立たない姿って」
「帽子さえ取らなきゃ誰も気づか……」
「なるほど」
「ところでタイチく……告しておく。おばさんと言う……敬語は使わなくていいし、名前もJと呼び捨てで……かしおばさんとは言うな」
 

アクアポリスQ#12

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月19日(木)09時20分55秒
編集済
     2

 厄日というのがあるものだ。
 トラムラインのドアが閉まる。タイチははっとプラットフォームを振り返った。ベンチに荷物を忘れてきたと思った。それから、いかなる荷物も持っていなかったのを思い出した。
 手ぶらで帰宅するのは初めてだ。彼は嘆息した。僅か半日のあいだに、Q龍でバッグを奪われ、ダストシュートに落とされて死にかけ、制服は汚水まみれになり、寮に帰ったら帰ったで正体不明のふたりに連れ出され、喫茶店では銃撃に遭った。目の前で人が死んだ。
 僕にしたって本当に生きてるんだろうか。本当は僕にも銃弾が命中していて、あれ以降の出来事だと思っているのは全部、死にぎわの一瞬にみている夢なんじゃないだろうか。それともすでに幽霊になっていて、自分だけそうとは気づかずQ市を彷徨っているとか……。
 警察車のなかで複数の警官から目撃について聴取され、いろいろな書類に住所氏名を書かされ、ようやく解放されて家に電話をかけようとしたら、ポケットにケータイが無かった。そうだ、海水に浸かってしまい電源が入らなくなっていたから、Jたちに連れ出されるさい寮室に置いてきたのだ。なかのデータは救済できるだろうか。通信会社のオフィスはまだ開いている? 考えはじめるとうんざりしてしまい、もろもろの後始末は来週にすると決めて、寮に戻ることなくトラムラインの駅に向かった。
 列車の一部は港でシーチューブに乗り入れ、そのままアクアポリスまで達する。改札を通るために生徒証を出そうと財布を開く。海の悪臭の名残が、鼻をついた。入学祝いに買ってもらった革財布がじっとりと湿って、表革はまだら模様になっている。洗えば、せめて臭わなくなるだろうか。プラットフォームに今や稀少になった公衆電話が設置されているのを初めて意識し、そこから家に電話をかけた。
 出てきたタエに訊ねる。「ねえ革って水洗いできるの」
「いまどこにいるの」彼女は母親めいた口調で問いただしてきた。
 こういうとき、つくづくと、自分に父親はないが母親は二人いると思う。
「今から帰るよ。じきトラムラインに乗る」
「夕食までには帰るって言っといて、どこほっつき歩いてんの。ケータイも通じないし、そのうえSSS【トリプルズ】の近くで銃撃事件があったっていうし……お母さん、久しぶりに高血圧の薬呑んでたんだから」
「その店にいたんだよ、僕」
「冗談でしょう。ほんとなの?」
「ほんと。目の前に坐ってた人が死んだ」
 わ、わ、きゃあ、ねえねえねえ、と彼女が顔を離して叫ぶのが聞こえた。母に伝えているようだ。やがて、
「もしもし。で、あんた無事なのね?」
「無事だから電話してる。ね、革って水洗いできるの? 必要な物があるなら買って帰ろうと思うんだけど」
「そんな場合? ちょっともう、そんな場合?」
「そんな場合なんだよ」
「なんだってそんなこと言えるの」
 タエのほうが昂奮してしまい、対話にならない。ちょうど直通のトラムラインがプラットフォームに入ってきた。詳しくは帰ってから話すと言い、通話を切った。
 手近な、窓際の座席に腰をおろす。本でも読もうと足許にあるはずのダッフルバッグを目で探し、また、手ぶらで乗ったことを思い出す。
 列車はQ市の夜を辷るように突き進んでいく。タイチは窓に頭を寄せた。海岸沿いに広がる旧繁華街の、雲母のような輝きがたちまち迫ってくる。彼の両親が育った海辺の街は、その向こうの黒々たる闇のなかに、三十五年前、沈んでしまった。彼は内地の仮設住居区で生まれたが、とうに取り壊されたその施設の記憶は薄く、場所も判然としない。彼が懐かしみを覚える故郷は一度も目にしたことのない町、海底の町であり、そのさきに浮かぶアクアポリスが、彼の唯一の家だった。
 すぐ後ろの席に、通路をまたいで親子連れが坐っていた。列車が海底への下降を始めたとき、そのなかの幼児が持っていたペットボトルが床に落ち、ぱしゃりと音をたてた。
 音に、タイチはひどく驚き、椅子から跳び上がった。ボトルはことことと座席の下をくぐりタイチの足許まで転がってきた。拾いあげて取りにきた幼児に手渡してやりながら、こんな物の音にびくついて、莫迦みたいだと自分にいい聞かせた。理由はわかっている。粉々に割れてテーブルや床に降りそそいだ、あの窓ガラスの音と似ていたのだ。
 五年前……。
 Jが自分から聞き出したがっていたのが、なににまつわる記憶なのか、タイチにはおおよそ見当がついていた。のみならず、アクアポリスの断面図を彼女がさらりと描いて見せたとき、直観的にこの人は本物だと判断していた。銃撃さえなければ、知っていることはすべて仔細に語っていただろう。
 嵐の晩、アクアポリスの閉じた空間にエーテルよろしく忽然と現れ、また消えた少年……サイトのこと。その直後、タイチが海上に見た黒い巨大な生物のこと。
 鯨ではなかった。彼は眼がいい。海面も見慣れている。単なる錯視ではないという確信がある。
 あれが、牛鬼だったのだろうか。とするとサイトが濡女? タイチより幾つか年下らしき少年にほかならず……なにしろ最初は全裸で現れたのだからこれは間違いないが……しかしそういえばJは、濡女を彼女と呼ぶのはナンセンスだと言った。性別なき精霊?
 サイトは精霊?
 列車がアクアポリスの最下階に到着した。
 Q市に属する一自治体でありながら、この人工島にはヨーロッパの小国じみた閉鎖性がある。なにしろ海に浮かぶ街だ。テロの標的にされ、万一沈没でもすれば、時間帯によっては三万近い人々が海の藻屑と化す。
 だからたとえ島民であっても、各種探知機の仕込まれたゲートをくぐらねば入島できないし、大きな荷物は税関ばりのチェックを受ける。住民証明を提示できない場合、すなわちアクアポリスに住民票を持たない者は、あらかじめ入島目的を明確にして管理センターに申請しておくか、保証人やその代理人に迎えにきてもらわねばならない。こう連ねるといかにも不便だが、陸地に暮らさずに済むことやそれほど厳格なセキュリティが、水没、そしてその後の犯罪の温床たるQ市を目の当たりにした人々には、おおいに歓迎されたのである。
 タイチは家のある、よいまち区方面に向かうグライドラインに乗りかけて、思いなおし、待合所に引き返した。たしか今もAQフォンが並んでいたはずだ。島内通話に特化した電話で、同種の電話同士なら無料。
 記憶どおりの場所にAQフォンの列はあったが、数を減らされ、生き残っているものも筐体が変色して、なんだか骨董品のように見えた。ケータイが子供たちのあいだにまで普及してからは、ほとんど利用者がいないのだろう。何年もかけていない加土カンナの家の番号など憶えていないので、案内センターから直接まわしてもらった。
 はい、と出てきた女の声を、彼女の母親だと思い、
「下の立花ですけど、カンナさんは」
 下の、というのは物理的な位置関係だ。同じよいまち区の高層ながら、カンナの家はより高い階にある。
「なに」
「あ……カンナか」
「なんの用」
 小学校のあいだは、多少ひねくれたところはあったものの、快活な少女だった。中学の学級で苛めに遭い、登校を拒否するようになった。すこし神経を病んでしまったとも聞いた。島内を退屈そうにうろついているのはときどき見かけるから、厳密にはひきこもりとはいえまいが、今もどこにも通わず通信教育も受けず、基本的に家でごろごろと過ごしているらしい。
 ひっこみ思案の傾向があったタイチが、思いがけずSSSの空気に馴染んで、陽性の、物怖じしない性格に育ったのと対照的だ。
「ちょっと話があるんだけど。できたら直接会って」
「いつ」
「今から」
「忙しい」
「じゃあ明日」
「忙しい」
「でも月曜は学校に戻んなきゃ」
「無理ってことで」
「じゃあ今、電話でいいよ」
「忙しい」
「五分」
「切るよ」
「一分」
「さよなら」
 表層は冷静でも、胸底ではQ龍やあみんでの、異常な体験の昂奮が渦巻いている。カンナの態度にタイチは柄にもなく、とつぜん逆上した。
「畜生、今から乗り込んでって外に引きずり出してやるからな」
 怒声は、カンナの萎れた心をひどく怯えさせたようだった。やめて、という泣きだしそうな小声が返ってきた。
 タイチは大きく息をした。「……ごめん、嘘だよ。ちょっと冷静じゃないもんだから」
「来ないで」
「家には行かない。ただ、とても大事な話があるんだ。カンナさ、アクアポリスが無くなったら困るだろ?」
「困る」
 

アクアポリスQ#11

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)12時38分5秒
編集済
   タカコが近づいてきた。椅子を起こしながら落ち着いた声音で、玩具でしょ、と言う。
「矢立【やたて】だよ」
 Jが撃鉄を起こすと、握りの上半分ごと、ぽかりと開いた。墨壺の口が覗いた。銃身からは毛筆が出てきた。
 さらにバッグから懐紙を出し、テーブルに広げながら、「お嬢さん、全員に飲みもののお代わりを」
 タカコは返事し、テーブルから離れていった。
「しょせん潰滅する運命の都市の、延命に力を貸してしまったこと、私はいささか悔やんでいるのだよ。しかし今さら見捨てられもしない。Q市潰滅の時期を明言できないのは、私自身がそれを遠ざけてきたからだ」
 Jは墨壺の纖維に筆を押しつけ、懐紙に一筆で星形を描いた。
「これが晴明の護符」
「五芒星」
「御名答」
 彼女は書き損じを消すように、そこに縦横の線を重ねた。縦に四本、横に五本。いい加減に引いているだけに見えた九本の線だったが、それらによって形成された十二の方形は、星形の中心にある五角形の内部にすんなりと収まっていた。
「いま重ねて描いたのが道満の護符だ。この図の中心部分に見覚えはないかね」
「あります」タイチは神妙に言って、椅子に腰を下ろした。「アクアポリスの基準階の地図だ」
「私がこのように設計した」
「すなわちアクアポリスは、海に浮かぶ巨大な護符なのです、Q市をあらゆる危機から遠ざけるための。だからQ市復興計画において、その建造は最優先されました」ゴショウメが穏やかな口調で補足する。「というよりアクアポリス建造が可能だったからこそ、当時の政府は復興事業に踏みきった」
「日本政府は本気でそんな呪術を……?」
「まるで邪術のように言うんじゃないよ。この国を鎮護してきた科学だ」
 タイチはJの顔を見た。Jもまっすぐに見返してきた。白髮を視界からはずすようにしていると、せいぜい三、四十代にしか見えない。どういう人種ともつかない灰褐色の虹彩はコンタクトレンズだろうか。
 彼女は再び筆を墨壺に押しつけた。そしてさっき描いた図の横に達筆で、
 牛鬼 濡女
 紙をタイチのほうに向ける。
「なんですか?」
「君が目撃したものだ。そこまでは調べがついている。私たちは濡女【ぬれおんな】を探しているんだ」
「見たことないと思います。どんな人ですか」
「人の姿だったとはかぎらない。濡女という呼び方も便宜上のもので、彼女の無数の呼び名の一つに過ぎない。本当は彼女と呼ぶのもナンセンスだな。濡女は精霊【スピリット】だ。牛鬼のメッセンジャーだよ」
「牛鬼というのは?」
「そちらの形態も一定していない。たとえば君がアクアポリスで……」
 タカコが新しい飲みものを運んできたので、Jはいったん口をつぐんだ。
 カップ類を取り換えながら、ふと路地に面した大窓に目をむけたタカコが、嘘、と呟く。
「伏せろ」
 Jがテーブルを跳び越え、タイチの脇に飛び込んできた。タイチは椅子ごと横倒しにされ、タカコを突き飛ばすかたちになった。
 タカコが盆を取り落とす音……爆竹が立て続けに破裂するような音……窓ガラスの破砕音……客たちの悲鳴とどよめき……それらが渾然となってタイチの耳をふさぎ、割れたガラスがテーブルに降り注ぐ。
 ああ、ああ、ああ、ああ、という痙攣したような喚き。床の上のタカコが発しているのだと気づいて、縮こめていた頸を伸ばす。ゴショウメが仰向けに倒れている。眼を見開き、額から血を溢れさせていた。
「な……なにが? なにが?」タイチの声はひっくり返った。
 テーブルの下からJがすべり出してきて、ゴショウメの手首を握り、眼を覗きこむ。
 ゴショウメ、と呟いて瞼を閉じさせ、ハンカチで彼の顔を被った。「ここまでやるか」
「……殺されたんですか。なんで。誰に」
「公式にはマフィアの抗争に巻き込まれたとでもされるんだろう。しかし彼らの目的は私たちだ」
「いったい誰が」
「まだ知らないほうがいい。今のところ君は安全だよ。私は逃げる。君は警察が来るまでここに居なさい。ゴショウメや私のことを問われても、ただ相席していたと答えること。お嬢さんも口裏を合わせてほしい。いいね?」
「は……はい」泣き顔のタカコが頷く。
「タイチくん、背中を」
「背中?」
 Jはテーブルの奥に引っ込み、自分のいた席から矢立と筆を取ってきた。
「弾丸除けの呪文を書いておいてやる。死にたくなければ背中を出したまえ」
「私にも」
 とタカコが言ったが、Jは笑って、
「お嬢さんは撃たれないよ。撃たれる理由がない」
「僕にはあるんですか」
「私たちと話しこんでいるのを見られた可能性があるからね。大事をとるだけだ。さあ背中を」
 タイチは従い、スウェットパーカを肩のあたりまで捲り上げた。
 冷たい筆先が縦横に走り、その感触は堪らなくくすぐったいのだが、それを笑いへと伝える回路が不通になっているらしく、代わりになぜか涙が出てきて、鼻を伝い、ぽたぽたと床を濡らした。
 ゴショウメに家族はいるのだろうか。子供や孫は? いるのだとしたら、それがこんなふうな姿で帰ってくるのを見て、彼らはなにを感じるのだろう。
 タイチの父は重化学工業会社のエンジニアだった。工場でモンスタレーションが立て続けに起き、大火災が発生したとき、暴走しはじめた発電システムを冷却するために、周囲の制止に耳を貸すことなく、頭から水を被って現場に飛び込んでいったのだという。それはかつて彼自身が設計プロジェクトを牽引したシステムだった。
 彼の力によってか、幸運な偶然が作用したからかも、わかっていない。予想された最大の爆発は起きなかった。工場の大半、そして周囲の家々は、致命的な被害を免れた。しかし高温を発した火災現場の跡からは、遺骨の一つも見つからなかった。なにもかも、みな灰になってしまったのだ。
「悲しいことでも思い出したか。それとも私の友人のために泣いてくれているのか」
 Jの指先がタイチの鼻に触れ、涙をはじき飛ばす。
「両方です」
「たくさんの死を見送ってきたが、その私とて、限りある生をまっとうせんとするだけの、小さな存在でしかない。悟りを得ることはあるまいし、君を悟らせることもできない。ただ、いくらか生きてきたうえでの暫定的結論として言えるのは、死は終焉ではないということだ。ゴショウメの心は私と共にある。彼はみずからの命を賭してもQ市を救うと決意し、私を捜し、力を乞うてきた。私は彼と心を一つにした……できたよ」
 Jはタイチのパーカを降ろした。
「これでいよいよ、私はこの都市を救わざるをえなくなった。そのためにはタイチくん、君の力が必要だ。来週にでもまた会おう。お嬢さん、裏口は?」
 タカコはトイレの方向を指差し、「トイレの横の物置をつっきると、裏の駐車場に出ます」
 店員たちが立ち上がり、一体全体なにが起きたのかと頭【かしら】を巡らせ、状況を窺いはじめていた。すこし離れたテーブルに怪我人がでたらしく、何人かが大声で騒ぎたてており、店内の視線はむしろそちらに集まっている。
 帽子を被ったJの後ろ姿が、その脇をすり抜けていき、消えた。
「このままじっと、ここで待ってなきゃいけないのかしら」
 タカコの手がタイチの手に重なる。
「ごめん、僕にもなにもわからないんだ」
 路地にパトカーのサイレンが響きはじめた
 

アクアポリスQ#10

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)10時10分26秒
編集済
   ふたりが暮らしている寮は、Q市SSSのなかで最も古い、石造りの建物の一つだ。蔦に被われた黒っぽい外観から鴉屋敷などと呼ばれ、不気味がって近づかない生徒もいる。開校時、モダンに改装された内部は新築の寮とさして変わらないものの、エレヴェータが無かったり閉鎖されたままの部屋があったりと、たしかに古めかしい側面も多い。
 その、無駄に広々としたエントランスで、制服ではない、かといって教師でもない二つの人影が、別室の上級生と立ち話をしていた。
「その汚い奴らです」上級生がこちらを指して言うのが聞こえた。「後ろが立花」
 タイチは立ち止まった。近づいてきた人物は相当な長身で、テンガロン風の大きな帽子を被り、サングラスを掛けていた。目の前に来るまで女性だとはわからなかった。
 サングラスを外しながら、「立花太一くん?」
 頷いた。
 女はいったん右手を伸べてきたが、異臭に気づくと後ずさった。「君、なにかが憑いてるぞ」
「海に落とされただけです。なにか」
「私はジェイ。建築設計の仕事をしている」
 女は言った。つるりとした面立ちから年齢を推し量るのは難しかった。そのうえ言葉つきも、異国人が日本語を喋っているように、なにか、ぎこちない。
 女は後ろの人物を示して、やや声をひそめ、「彼は国土保安院のゴショウメだ」
 紹介された人物が、無言で頭を上下させる。上質そうな背広を着込んだ、小柄な老人だった。国土保安院といえば統治府の機関。いったいなんの用が……?
「あの、シャワー浴びてきていいですか」
「ここで待ってるよ」女は頷いて言った。「身を清めながら思い出しておいてほしい。五年前、君はヌレオンナを見たはずなんだ」

 喫茶あみん。タイチはべつだんタカコにも他のウェイトレスにも興味はないが、とにかく学校に近い店なのでなにかと利用する。他の生徒や教師もよく店内を占めている。
 あみんに行くと聞きつけたナオトも同席したがったが、エントランスで待っていたジェイが、
「君は来ないでください」
 と、きっぱり拒絶した。
 窓際の席に平服に着替えたタイチがいる。その向かいにゴショウメとジェイ。
 ジェイという名のスペルを訊ねたタイチに対し、ただ彼女は指で空中に「J」と描いて見せた。店に入って初めて帽子をとった彼女は、老婆のような真白な髮をしていた。それを高々と結い上げている。わざと色を抜いているのかと思うほどの目映い純白だ。いっそう年齢がわからなくなった。飲みものが揃うのを待ってから、Jが切りだす。
「アクアポリス出身の立花太一くんだね?」
「生まれは違いますけど」
「道摩法師【どうまほうし】あるいは蘆屋道満【あしやどうまん】という名に、聞き覚えくらいはあると思うが」
「道満……安倍晴明【あべのせいめい】の仇役の?」
 彼女は嘆息した。「君の学校は本当に優秀な学校なのか」
「まあ、小学校の成績はよかったんですけど」
「仇とはどういう意味だ。そのうえ役とは」
「芝居の話かと思ったんです。じゃあ実在の人だったんですか」
「ああ……史上最大のウィザードのなんたるかも教えずにおいて、宇宙のいかなる摂理を教えようというのだろう」
「ええと」タイチは混乱し、苛立ちはじめた。SSSに批判的な政治団体かなにかだろうか?「本当は道満のほうが強かったんですね? それでいいですよ、べつに晴明のファンでもなんでもないし」
「愚問。その質問は、ステゴザウルスはマンモスより強かったんですかと問うているも同然だ。二者が争う理由もすべもない。晴明は純然たる理論家であり政治家だ。陰陽師の意味も知らんのかね、君は」
 タイチは憤然と、「知ってるつもりでいましたけど、いま答えてもたぶん否定されるんだと思います。僕の無知を莫迦にするために訪ねてこられたんですか。ここの代金は払いませんよ」
「落ち着きたまえ」
「帰ります。これから帰省するんです」
「落ち着くんだ、君がもし家族を大切に思うなら」
 高圧的な教師のように彼女は言い、その語勢に、タイチは怯んだ。
「私が道摩法師の末裔であり直系であることを、まず説明しようとしていたのだ。私は君が育ったアクアポリスを守護してきた者だよ」
 それまで沈黙を保っていたゴショウメが、紅茶を啜りながら発した。「この人はいつもこういう調子でしてね。あなたが面食らわれるのも無理はない。しかし彼女の言葉はすべて真実です。こんな物が証明の足しになるとは思われないが……」
 小動物のような見た目に似合わぬ、低い穏やかな声だった。突き出してきたIDカードには、国土保安院地質学研究室長五桝目剛一【ゴショウメゴウイチ】とプレスされていた。ホログラム像はたしかにゴショウメ自身だ。
 タイチは受け取りながら、「ムーヴィを見てもいいですか」
「どうぞ。もちろん」
 カードを側面から圧迫すると、任意の方向にホログラムが廻転する。横顔も後ろ頭も自由に眺めて持ち主と照応できるのみならず、この最新ヴァージョンの技術が駆使されていること自体、偽造ではないという証明として機能する。このレベルのものの偽造のニュースは聞いたことがないが、その有無にかかわらずヴァージョンは毎年更新される。
「扱いに慣れておられますな」
「あ……姉が、保健福祉事務所に勤めています。こんなに凄いカードじゃないけど」カードを返した。
「私は残念ながらフリーランスでね。身元の保証はいつもゴショウメだのみだ」とJ。
 せめて本名をいえばいいのに、とタイチは思う。
「せめて本名を名乗れといま思ったな?」
 ぎょっとして、「読心術?」
 Jは破顔した。「いつもそう言われるからさ。残念ながら本名というものが私には無い。ただJとしか呼ばれたことがないし、ほかで呼ばれたくもない」
「でも戸籍上の名前……」
「戸籍など無い。統治府は捏造を申し出てきたが、断ったよ。だって気持ち悪いじゃないか、今さらただのJじゃなくなるなんて」
「彼女はアクアポリスの設計者なんです」とゴショウメ。
「ああ、管制区の仕事かなにか……」とタイチは納得して珈琲を啜り、それを噴きちらしそうになった。「設計者?」
「いかにも。あれは私が独力で設計したものだ」
「だって建造されたのは」
「着工は空虚前一九年だから……今から三十四年前か。時が経つのは疾いな」
「おばさん、いったい幾つなんですか」
「レディに年齢を問うな」
 タイチはゴショウメを見た。
「私も正確には知らないんですよ」彼は呟いた。「すくなくとも当時は、今のように真白じゃなかったな」
 ゴショウメ、とJが一喝する。彼は肩を竦めた。
「さて」彼女はテーブルに身を乗りだし、「空虚前二〇年、Q市の地盤は激しく崩れ、総面積の約四割が水没した。タイチくん、なぜだと思う?」
「もともと地盤が緩いうえに、地下水や天然ガスを採りすぎてたから、と習いましたけど」
「より地盤の緩い都市や、より多くの地下資源を汲み上げてきた都市は幾つもある」
「でもその沖合で大きな地震が起きたわけで」
「なぜ地震は起きた?」
「プレート説を解説すればいいんですか? あのすみません、この問答はなんの役に立つんでしょう」
「プレートテクトニクスには一理も二理もあるが、地震のメカニズムを説明しうるほど繊細な仮説ではない。剛性を保ちつつ変形も容易というプレートの概念自体、いささか御都合主義的なものだし、帯状に発生するであろうエネルギーがなぜ点めいた震源へなだれ込むのかも説明できない。震源は地中に潛在して自律的にエネルギーを溜めこんでいる、それがときに暴れだすのだと考えたほうが筋が通るとは思わないか」
「そんな議論をふっかけられても答えられません。ただの高校生なんですから」
「予言しよう、Q市は遠からず滅びる」
 対話の意欲をなくしかけて椅子にあずけていた背を、タイチは再び起こした。
「いつですか」
「それは断言できない。しかし最新の地質学上でも方位学上でも、いま存在しているのが奇蹟としかいいようのない土地なんだ」
 は、とタイチは思い切りよく息を吐き、席を立ちながら、「いつ滅びるんですか。それを言えないんだったらインチキ予言の典型だ。都市だって国だっていつかは滅びます。おばさんはその調子で千年でも二千年でも生きて、ほら滅びただろうって笑ってください。僕には関係ない」
「勘違いするな。坐りたまえ」
「寮に帰ります」
「坐れ」
 Jはハンドバッグから小銃を取り出した。短筒【たんづつ】とでも称すべき、時代がかった代物だった。タイチは両手を上げながら後ずさった。椅子が大きな音をたてて倒れる。
 

アクアポリスQ#9

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)09時55分2秒
編集済
   中から出てくる出てくる、七つ八つ、立て続けに人影が現れた。大の男もいれば幼児に近い少年もいる。見覚えのある革ジャンパーもあった。彼が近づいてくるにつれ、音楽も大きくなった。手にはナオトのケータイがあった。
「あの……友達を探してて。ええと、朋友【ポンヨー】」タイチは自分の制服を掴んで説明しようとした。
 最も躯の大きな青年が、音楽に合わせて功夫の構えをとった。踏み出してきて、あああっちょわ、と叫んだ。
 タイチは後ずさろうとして、足をもつらせ、あとざまに転んだ。ケータイを握りこんでしまい、同時に音楽も途切れた。笑い声があがる。タイチはケータイをポケットに仕舞った。集団がわらわらとタイチを囲み、つかみ起こす。
「ありがとう」
 タイチは礼を言ったが、それはまったくの誤解だった。まず肩からダッフルバッグをむしり取られた。彼は両腕を抱えられ、なかば宙吊りにされて、廟の中の闇に引きずり込まれた。
「わ。あの……対不起。対不起」
 黴くさく埃くさい空気。視覚的には、そこかしこに廃材が積み上げられているという程度のことしかわからない。奥の壁際まで運ばれた。
 足許で、ぐわん、という金属の蓋を開ける音がした。風の音。海の臭気。
「ダストシュート?」思わず訊ねた。
 是【シ】、再見【ザイジェン】といった言葉や嘲笑が、闇を飛び交う。噂の一つ……ごみを不法投棄するためのシュートがQ龍には無数にあり、招かれざる余所者もそこから海へと放り出される……は事実だったようだ。
 ズボンの裾が風にはためいた。両腕を放された。片方の肘が床に激しくぶつかる。タイチは痛みをこらえてその肘を張り、落下に抵抗した。肩を蹴られた。
 落ちた。
 タイチの身は凸凹したトタンの筒の中を滑り落ちていき、次の瞬間には、空中にあった。
 夕陽の輝きが目に入った。それは勢いよく彼の視界を上昇していった……。
 塩辛さをふくんだ腐臭が、覚醒しかけの意識を、まず支配した。
 それから寒気に襲われた。
 裸で外に放り出されているのだと思った。ごみ捨て場だろうか。
「起きろ」
 顔を叩かれた。そんなことしなくても、もう起きてるよ、と頭のなかで文句を言う。
 いざ瞼を開けて、頭や頬にプラスティックごみを張りつかせたナオトの顔を間近にすると、彼は軽いパニックに陥り、激しく咳込みながら手足をばたつかせた。水しぶきが立った。
「落ち着け。おとなしくしてろ」
 海に浮かんだ古タイヤの穴から、頭と片腕を突き出していた。ナオトがはめてくれたようだ。
 躯の残りは冷たい海のなかにあった。ナオトも同じタイヤにしがみついている。やっと思い出した。Q龍のダストシュートに落とされたのだ。ナオトがバタ脚をして、タイヤを浮き橋に寄せていく。タイチも脚を動かして手伝いながら、絶壁のようなQ龍を見上げた。さまざまな高さに排出口らしい管が突き出していた。自分がどこから落ちたのかはわからなかった。
 たがいに固く舫われ板を渡され、しばしば二階を建て増され、あたかも古びた街並みのようになったボートや筏の連なりが、降ってくるごみを避けるためだろう、このあたりには無い。代わりに大小のプラごみ、生ごみが海面を埋めつくしている。
 浮き橋に着いた。ナオトが先に上がってタイチを引き上げた。橋の上で遊んでいた子供たちが、ごみの園から這い上がってきた生きものに怯え、ボートの隙間に消えていく。上着を脱ぎ、顔やズボンからごみを払い落としているうち、タイチの胃の腑は激しく上下しはじめた。彼は海に向かって嘔吐した。
「大丈夫か」
「……僕は無抵抗主義者だ。ちなみに無抵抗主義というのは非暴力主義であって、圧政に屈服するわけじゃないよ」
「知ってる」
「その自分が汚い海に浮かんでたのは、いちおう納得できる。でもなんで功夫の達人も一緒に?」
「タイチを待ってたんだよ。俺がいなかったら死んでたくせに文句言うな」
「お前がいなかったら、そもそもチャイナタウンにいなかったよ。畜生、僕までバッグ盗られた」
「ケータイに三節棍にスティック端末に……大損害だ。タイチの被害は?」
「ケータイは濡れて、もうだめだと思う。バッグには着替えとノートくらいで……あ」と彼は顔を上げたが、すぐにかぶりを振って、「べつに。命があってよかった。タイヤが浮かんでたのは運がよかったな」
「降ってきたんだ。ボートの誰かが投げてくれたんだろう」
 タイチは夕陽に照らされたボート街を見渡した。屋根の一つの上で人影が動いたような気がしたが、猫かもしれない。すぐさま逆光のなかに紛れてしまった……。
 乾きはじめたら乾きはじめたで、ふたりの衣服はそれまでとは異質の、ひどい臭いを発しはじめた。路面電車に乗り込むと、乗客たちは一斉に他の車両へ移動した。
 こりゃいいや、とナオトは強がったが、内心では居たたまれなかったようだ。本来よりだいぶ手前の停留所で、もう降りようといいはじめた。タイチも賛同した。
 残りは歩いた。
 

アクアポリスQ#8

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)09時40分31秒
   またケータイが鳴った。ナオトだ。
「どこ?」
 ナオトはひそめた声で、「大井街の雑貨屋の脇にある階段を上がってる。跫音が……すぐ上だ」
「Q龍には入るなって言ったろ」
「今月の生活費がまるまる入ってるんだ。取り返さないと家にも帰れねえ」
「交通費は貸すよ。あとはジギーに上着でも売って」
「上着だけで済むか。ジギーのお稚児さんなんかに成り下がったら、あみんのタカコちゃんに顔向けできん」
 学校近くにある喫茶店のウェイトレスだ。店の名物はパンプキンパイとシナモンティー。
「無関係だろ。お前の名前も知らないって」
「まだ教えてないからさ。じっとこっちを見つめてた」
「頭の寝癖見てたんだよ。あのさ、ナオトが舞い上がってるから言えなかったけど、こないだ彼女、うちの野球部の奴と歩いてたよ」
「……いつどこを?」
「先々週かな、カルチェ・ジャポネのあたり。電車から見えた」
「嘘だ」
 切られた。いま言うのではなかった。タイチは舌打ちし、荷物を地面に下ろした。割包【クワパオ】の包装を開いて囓りつく。押し込むようにして食べきった。最後の一呑みが咽に詰まった。
 折良く、背中に大きなタンクを背負った甘茶売りが通りかかる。その肩を叩いて指を一本立てる。冷えた甘茶が紙コップに満たされて差し出された。一気に飲み干して、空のコップと代金を手渡す。
「謝々」
「不謝【プーシェ】」
 再び荷物を担ぎ、人波をかわして走った。
 大井街の入口は比較的、人の出入りが多い。老若男女さまざまだが、身なりはどれも小綺麗とはいいかねる。近づくとSSSの制服はひどく目立った。
 今度は自分からナオトに電話した。彼はすぐに出てきて、
「鳴らすな莫迦」
「音切っとけよ。どこいる?」
「六階……いや七階。ただっ広い場所に出た。なんかの廟【びょう】がある。海が見える」
「掏児【すり】は?」
「見失った。ぜったいこっちに来たのに。この中かな……わ」
 バッテリー切れのようなノイズ。落としたらしい。何があった?
「畜生、自転車のパーツ貰うからな」
 無鉄砲なルームメイトを呪いながら、異臭漂うくらがりに飛び込んでいく。助太刀する気などない。早く連れ戻さないと何が起きるかわからない。Q市出身ではないナオトは、Q龍にまつわる諸々の噂をいい聞かされて育っていないのだろう。
 酔ったような足取りの通行人にぶつかりかけ、対不起【ドゥイブチィ】と詫びる。中華街に足を踏み入れるようになって最初に学んだ言葉だ。どこもかしこも人が多く、ぶつからずに歩くのには難儀する。
 雑貨店は……あった。裸電球に照らされた崩壊しかけたような店内から、置物のような老婆が見返している。店を通り過ぎた同じ側に、細い上がり口を見つけ、上る。不揃いな朽ちかけたコンクリート段が、表面を流れ続ける汚水によって、鍾乳石よろしくてらてらと輝く。建物の天井が低いため段数は少ないが、どこに足を置いても滑ってしまいそうで、急ぎたいのに急げない。
 階数が増すごとに廊下からは人影が減り、五、六階で無人になった。階段が急に明るくなったが、外観から窺えるところの屋上には程遠い。上がりきって状況が理解できた。多数のビルの集合体であるQ龍は、部位によって高さがまちまちなのだ。タイチが辿り着いた場所は、屋上でありつつ奈落の底だった。三面を十階ぶん近い高さの外壁に囲まれている。残りの一方にナオトが言っていたとおり、小さな廟がある。
 薄青い鉄の扉は閉ざされ、左右の窓格子の向こうには闇しか見当らない。廟の裏手には下方階の、壁に吊り下げるようにして栽培されている緑の数々や、窓から窓へと渡された紐に沿ってはためく洗濯物などが見えた。
 外からでは想像がつかない、ゆったりとした人の営みの気配に、タイチの緊張は弛んだ。住人同士で空間を巧みに分け合うその立体構造は、彼の家族が住まうアクアポリスを彷彿させた。
「ナオト」
 タイチは廟の方に進みながら呼んだ。返事はない。無駄を覚悟で再びナオトのケータイを呼び出す。かすかな音量の《龍爭乕鬥【ロンデイエンハードラ】のテーマ》が応じた。近くにいる。
「おいナオト」
 廟の扉が開く。タイチは立ち竦んだ。
 

アクアポリスQ#7

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)09時30分19秒
   Q龍というのはもちろん、かつて香港にあった九龍城砦【ガウロンセンチャイ】をもじった呼び名だ。マスコミがつけたこの異称の語呂がよかったものだから、いつしか本来の地名が忘れられてしまったのみならず、その中身も、名前に吸い寄せられるようにして九龍城砦そっくりの魔窟へと発展した。今は、かつて香港に暮らしていた人々が「屋上に上がらないかぎり区別がつかない」と証言するほどだという。
 遠目にはあたかも巨大なコンクリート塊に見えるものの、実際には隙間なく建ち並んだビルの集合体だという点も、本家と同じだ。バス通りに面した外壁には空中に巨大な書物を広げたように無数の漢字の看板が掲げられ、中では盛んに商売や診療がおこなわれていることを示している。ところどころに暗く開いた隙間からは人がしきりに出入りしている。
 空虚前二〇年の、Q市が陸地の四割を失った大水没以前、Q龍はその萌芽の気配もなく、ここ一帯のチャイナタウンも存在しなかった。いまQ龍がある場所には、雑居ビルやマンションが幾つか並び、地上階で営業している中華料理店が何軒かあっただけだという。Q龍の裏手は海に面している。すなわち当時のささやかな中華街は、断層の手前に位置していたため、すんでのところで水没を免れたのである。この地理条件がQ龍の成立を後押しした。
 とつぜん難民となってしまった水没地域の住民のなかには、ボートを借り、あるいは筏を組んで互いに舫【もや】い、かつての住居の上で波に揺られながら暮らすことを選んだ者たちもいた。現Q龍の前の海は、沈み残った細い陸地に囲まれた浅い湾になっており、海上に頭を突きだしたまま建物も多く、水上生活には都合がよかった。ボートはたちまち湾を被いつくし、浮橋が縱横に走る過密なスラムへと発展した。
 押し出されたボートピープルが、魚類から両棲類への進化よろしく、再び陸へと這い上がっていく。彼らは居住スペースを求め、勝手にビルを建て増した。ビル群から隙間は失われ、高さは増していき、遂には二ヘクタールぶんの奇怪な高層住宅が出現した。Q龍の名がついた。
 しかし空虚前一三年には一度、その住民全員が強制的に退去させられ、Q龍は立入禁止区域に指定されている。国によるQ市復興事業が始まったのだ。にもかかわらず、この危険きわまりないビル群は取り壊されなかった。その後の建設計画に関し、国とQ市が激しく対立したためだった。以後十三年間、Q龍は廃墟として放置された。
 そして空虚点が訪れる。
 統治府が立ち、多国籍軍が日本各地に駐留。この一帯はあたかも中国租界化し、Q龍は「実質的治外法権」下の「旧政府命令による立入禁止区域」という奇妙な状態に置かれることになった。誰がどの法に基づいて治めるべきか、あるいは破壊すべきか、何人にも判断しえないビル群に、元の住民、ホームレス、不法滞在者らが集い、コミュニティを再形成しはじめた。人は人を呼び、Q龍はかつて以上に膨らんだ。
 現在の人口は数万にのぼるともいわれる。
 中等部時代のタイチは、好奇心から、比較的安全だと聞いた、本家に倣って龍津路【リュウシンロ】と呼ばれている主要通路の一つに入り込んだことがある。晴れた昼間だというのに薄暗く、上からしきりに滴り落ちてくる汚水によって路面は濡れ、ところどころぬるぬるとし、気をつけていないと足を取られそうだった。下水じみた臭気が鼻をついた。顔を上げると、まるで資材置場を上下さかさまに眺めているように、水道管や電線類が乱雑に、かつびっしりと重なって吊られ、その上には上階から投げ落されたのであろうごみが堆積していた。そんな通路で、異国語を話す幼児たちが無邪気に隠れん坊をしているさまが、タイチにはかえって空恐ろしく、早々に路を引き返した。それきり近づいたことはない。
 Q市は百の顔を持つ。ガラス張りのブルーミングデールズや、高級ブランドの直営店がゆったりと建ち並ぶ新繁華街もQ市なら、古めかしい校舎、豊かな緑、生徒たちの制服がパブリックスクールを彷彿させるSSSもQ市の一つの顔、カルチェ・ジャポネと呼ばれる旧き佳きパリを模した街も、このチャイナタウンとQ龍も、Q市。
 タイチの母と姉が暮らすアクアポリスもまた、まぎれもなくQ市の主要な構成要素である。
 さまざまな時空の文化をごった煮にしたようなこの都市にタイチは生まれ、育ち、この夏には十七の誕生日を迎える……。
 

アクアポリスQ#6

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)09時18分55秒
編集済
  「似た体型で、自分より小さい奴を探すんだよ」
 タイチの着ているブルーグレイのパイピングブレザーの袖口が、腕まで上がっているのを見た中嶋尚人【ナカジマナオト】が言う。彼も同じブレザー姿で、またふたりとも似たようなダッフルバッグを肩に掛けている。週末の帰省の途中だが、ダウンタウンでトラムラインを降りていた。
 タイチはバッグを反対に掛け替え、袖口を振り落した。高等部に上がったときは手の甲を被っていた袖が、今はそうしてもシャツのカフスの半ばまでしか届かない。
「譲れって? これしかないんだよ。替えは持ってないんだ」
「もちろんただで渡せなんて言ってないさ。いくらかで売って、その金で今度は、自分より大きくて窮屈そうにしている奴の上着を買うんだ。合理的だろ」
「制服売ったら放校だよ。こないだ美術部の後輩が」
「生徒同士は話が別さ」
「本当に?」
「たぶん。退学になったのってあの可愛い子な。一年のサ……」
「佐倉沙耶【サクラサヤ】」
「コレクターに百万で売ったとか。やるな」
「百万は末端価格だよ。ネットで転売されまくって。まあサクラも相当な値段で売ったらしいけど」
「なんでその子の服だって学校にばれた?」
「名前も一緒にネットに広まったから。ネーム刺繍を取り忘れたって本人が言ってた」
 ナオトは黒目を廻した。「なんたる詰めの甘さ」
「もともと周りから浮いた感じの子だったからさ、挨拶に来て、辞めることになってせいせいしたって言ってた。強がりかもしれないけど。本当は漫画家になりたいから、これからはその修業をするって」
 ふう、とナオトは安堵したような息をつき、「ともかく俺は感心してる。自分の古着に、たとえばタイチ、お前のその窮屈な上着にそれだけの商品価値があるなんて、思いついたことあったか?」
「サクラの制服だから売れたんだよ」
「俺のも売れる、相手次第では」
 ナオトは眉間に皺をよせた。奇行癖のある上級生から言い寄られ、このところの彼は困りはてている。相手は天才ともエンプティとも噂されている男で、通称ジギー。
 ジギーがベニヤの板きれを手に、ひょっこりと美術室に入ってきたことがある。貸せ、と勝手にタイチの絵具箱を開け、下書きもなしに小一時間でコロー風の小品を仕上げてしまった。寮室が殺風景だから飾るのだと言っていた。
 音楽や数学に関してもそんなふうだと聞く。まさしく天才だが、しかし彼がエンプティだとはタイチは思わない。エンプティという言葉は独り歩きしすぎて、実体からかけ離れつつある。本当のエンプティは……その描く絵は……。
「そういう可能性に気づかせてくれたってだけでも、その子の行為はAプラス。SSS【トリプルズ】の誉れだ。刺繍を取り忘れたのはCマイナスだが」
「本気で?」
「Cマイナスだ」
「そうじゃない。制服、ジギーに売るの?」
「本格的に金に困ったらな。食うか?」
 ナオトは割包【クワパオ】の屋台の前で立ち止まった。親の仕事を手伝っているのか屋台のまわりにたむろしている子供たちが、三百円、三百円、と叫ぶ。
「さっき食べたじゃないか。港行きだ。あれに乗ろう」
 タイチは、通りの中央をのろのろと進んでくる路面電車を指差した。歩道も車道も軌道もお構いなしに人が行き交うこのチャイナタウンで、路面電車は極端な減速運転を余儀なくされる。しかもあらゆるドアが開きっぱなしだ。ドアを閉じて進んでいた頃は、ただ乗りのためにこじ開けようとする者があとを絶たず、人身事故がたびたび起きた。チャイナタウン内では乗降自由とし、それを利用したキセルにも目をつむることで、今は積極的に事故を防いでいる。チャイナタウンを出れば、ドアは閉じられる。
「これ食ってからだ」ナオトは割包を注文した。振り返って、「タイチも食え」
「僕が帰るっていうと、ものすごい量の料理が並ぶんだよ。母さんも姉さんも張り切るんだ」
 おい、とナオトが怒声をあげる。自分に向けてだと思ったタイチは跳び上がった。
 ナオトは格闘技マニアであるのみならず、みずからも功夫【カンフー】の心得があると称し、ときおり格闘家じみた荒々しい一面を覗かせる。実力の程は不明だが。
「わかった、食べる」
 と屋台に近づこうとしたタイチの胸を、同年代の少年の革ジャンパーが突いた。少年は振り返りもせずに遠ざかった。
「タイチにじゃない。今の奴、俺にもぶつかって……」ナオトは頭を振りながらブレザーの内ポケットに手を入れ、はたとこちらを見返した。「掏【す】られた」
 タイチはとっさに自分の内ポケットを確かめた。財布は……ある。
「捕まえる。タイチ、金払っといてくれ」ナオトは駆けだした。
「それより警察に……」タイチも屋台を離れた。
 割包、割包、三百円、三百円、と子供たちが追ってきた。ダッフルバッグを背中にしょって小走りしながら、財布を開けて小さな手に硬貨を握らせる。代わりに割包の紙づつみを押しつけられた。
「謝謝【シェシェ】」
「こちらこそ」
 そうこうしているうち、革ジャンパーの少年はもとよりナオトのブルーグレイの背中まで雑踏にまぎれてしまい、タイチは割包を手にしたまま途方に暮れた。
 ふたりがチャイナタウンに足を運んだのは、ナオトが三節棍を欲しがったからだ。彼のバッグには買ったばかりのそれが入っている。気が大きくなっているのだ。
 ケータイが鳴った。ナオトからだった。
「いまどこ?」
「Q龍【キューロン】の前だ。とっ捕まえたぞ」
「こっちに報告するよりも早く警察に」
「今から……あ、逃げた。畜生、中に入ってく」
「ナオト、追うな。Q龍の中は警察が来ない」
「また電話する」
 通話を切られた。タイチは走る……。
 

アクアポリスQ#5

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)08時55分47秒
編集済
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 日本政府に代わりこの国を治めはじめていた、髮も肌も眼もカラフルな統治府の決定に沿い、全国のSSSはそのすべてが、空虚後三年からの僅かな期間に集中して設立された。開校はいずれも泥縄式で、生徒の募集が始まっているというのに建設用地を買収しきれず、廃校を買い取ったり生徒の減った私学の中身を強引に余所に追いやったりして、かろうじて入学式に間に合わせたスクールも少なくない。Q市のSSSにしても、施設の多くはカトリックの女学校だった時代のままだ。
「新時代に即応する特別授業に重きをおいた、中高一貫・全寮制の新制学校」というSSS制度の触込みは、いかにも口当たりがよかった。よすぎた。そこに加えて異常な開校ラッシュとあって、さまざまな憶測が乱れ飛んだ。日本固有の現象であるPP……人格稀薄化【パーソナリティペーリング】……を食い止めるための統治府の画策の一つ、という絵解きが今や定説化しているが、まさか統治府が、PPが学校教育によって収まると期待したわけではあるまい。良いほうに考えるならば、優秀なるPP研究者、類する研究者の育成が主眼だったということになる。しかし、それもいささか悠長すぎないだろうか。
 PPによる無気力化が引き起こす、多様な社会現象はじつに問題視されていたが、それ以上に当時はPPと怪物化【モンスタレーション】との因果関係が取り沙汰されていた。いつ誰が凶暴な怪物に変身するやもしれない状況下で、「いったい空虚点では何が起きたのか」といったテーマを手探りしていく人材を、さあこれから育成しましょう、というのは尋常な思考とはいいがたい。
 そう考えるほどに、悪いほうの憶測……高度教育を受けているつもりの少年少女が、じつはPP研究のためのサンプルだったという噂……が説得力を増していく。
「知ってる? 統治府は狐狗狸【こっくり】さんで政策を決めてるの」
 かつてタエは、皮肉な笑みをうかべてタイチに言った。
 保健福祉事務所に勤めている彼女は、統治府からの理不尽な通達にしょっちゅう泣かされている。自分だけではなく事務所全体が泣いているのだという。狐狗狸さんは冗談だろうが、なにかと思わせぶりな統治府が、じつはまるきり無策であるという彼女の識見は、あんがい的を射ているかもしれない。
「でも幸せだと思わなきゃ。国じゅうを妖怪変化が跋扈してたのに、日本は余所の国に滅ぼされなかったし、大きな内戦も起きなかった。お父さんは死んだけどほかの三人は無事で、今は安全に暮らしてる。私たちは運のいい国に生まれたのよ。たぶん」
 どこか得体の知れない統治府の尽力によってか、それとも災いの星が地球から遠ざかったのか、空虚後五年に入るとモンスタレーションは急速に鎮まって、すくなくとも表面上、日本はかつての穏やかさを取り戻した。PPにまつわる悲観的なニュースも、とんと耳にしなくなった。
 設立にまつわる絵解きが正しいとすれば、SSSはその本来の意義を失ったことになる。しかし空虚後一五年の今日にいたるまで、まだ一校として閉鎖されていない。統治府御墨付、新時代に即応するどころか、埃をかむった権威主義が横溢する時代がかった学園として、各地にちょっとした異次元空間を形成している。タイチが知っているのはQ市立SSSだけだけれど、他もまあ似たり寄ったりだろう。日本人のほとんどが統治府を嫌っている。裏腹に、ほとんどが統治府の権威に弱い。
 新制校どころか旧制中学の再現であるとか、ヒトラー・ユーゲントのようだとSSSを揶揄したり非難する声は多い。しかしじっさいそこに暮らしている生徒たちといえば、ただ小学校の成績が飛び抜けていたというだけで、適度に無気力、適度に血気さかん、使命感と身勝手さをあわせ持ち、夢想的なのに近視眼的な、すなわち富裕層のごく普通の若者が大半だ。
 いかに校則が厳格でエキセントリックでも、生徒という生徒が多機能ケータイを所持し、そのディスプレイを通じて異国の戦場をリアルタイムで眺められるような時代に、人格の純粋培養はありえない。古めかしい寮の四人部屋で、タイチがヘッドフォン・アンプに繋いだエレクトロニック・ギターをかき鳴らしていると、傍らでは別の少年がネットを通じて国籍も年齢もわからぬ相手との多面チェスに興じている。かと思えば他の少年たちは、ふたりの頭越しに壁に向かってライトダーツの光を投げている……そういう晩もあれば、全員が膝を突き合わせてグループ課題に挑んでいる晩もある。侃々諤々【かんかんがくがく】の議論の晩もある。
 諍いもしばしば起きる。これといった理由もないのに無力の哀しみが伝播しあって、誰も言葉を発さない、とても静かな晩もある。
 

アクアポリスQ#4

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)08時49分57秒
   夜、タイチは寝つけなかった。まるでカンナに恋していた頃のように、ベッドのなかでひたすらサイトのことを想う。きっとエンプティだ。さっきまで、僕の目の前に。
 アクアポリスは余所者を許容しない。合理的に考えるならば彼は、パスを有した何者かがここにエスコートしたゲストに違いない。しかしゲストが全裸で夜の学校に坐りこんでいるというのは、いかにも奇妙だ。カンナが目撃した巨牛と関係しているのかもしれない……そうに違いない。その日の見聞を彼は、なんとか神秘的に整合させようとしていた。まえぶれとしての颱風。霊獣の出現。カスパール・ハウザーのごとき、過去なき少年の降臨。
 うとうとと夜半を越え、そのさきを越え、はたと目を覚まして、明るくなった室内に気づく。タイチは着替え、物音をたてないように外へと出た。母はまだ眠っているようだ。タエが帰宅した気配もない。そのまま仕事をして晩に帰ってくるつもりか。
 エントランスの前には、間違って登校してきた児童を追い返すためだろう、担任の村井先生が立っていた。村井先生はみもざ区に住んでいる。
「おい、今日は在宅……」
「忘れ物です」タイチは叫び、校内に駆け込んだ。
 三階は経由せず、直接グラウンドへ。ドームはしまい込まれていた。青々とした空がアクアポリスを覆っている。庭園への階段に多数の人影を認めて、足を止める。先生ら。見知らぬ大人たち。警官の制服も見える。
 タイチは再び歩きはじめた。制服の向こうに、自分のパーカのオレンジ色が覗いていた。囲まれているのはサイトだ。カンナの父親の姿もある。彼はあたりを見回した。
 カンナは一階庭園の真下に立ち、眩しい朝陽を避けていた。
 タイチは叫んだ。「通報したな」
 彼女はふてくされたように頭を傾けていたが、タイチが近づいていくと吐き捨てるように、「陸で生まれた人にはわからない。アクアポリスはね、ぎりぎりのバランスで浮かんで私たちを支えてるんだ。それを一日でも引き延ばしたくて、みなうんざりするほどの細かいルールを守ってる。いつでも陸に帰れる君とは違う」
 言い返せなかった。野良犬の通報も彼女だったのかもしれない、と思った。
 大勢が笑っているような声と、羽ばたきの音に、タイチは振り返り、視線を上げる。空が白く渦巻いている。
 鴎だった。何十もの鴎たち。まるで校庭の人々を好物と勘違いしたように、一斉に舞い降りてくる。大人たちは驚き、庭園に駆け上がったりグラウンドに散らばったりした。白い、大きな、不定形の塊が残った。鴎の羽ばたきに包まれたサイト。それは一瞬の現象で、鴎たちはまた一斉に散っていった。無人の階段が残った。タイチは息をのみ、駆けだした。
 階段の一部が深紅に染まって、そのかたわらに白っぽい物が落ちている。近づいてみるとそれは飛びたちそこねた……いや飛ぶことなど端からかなわぬ、薄汚れて毛羽だった、小さな屍骸なのだった。仲間たちが運んできたとしか考えられなかった。
 鴎の骸は、赤い水溜まりよりも下段にあった。鴎の血ではない。
「サイト」
 液体には奇妙な立体感があった。朝陽を浴びてぎらついているがゆえの錯覚か、蠕動しているようにも見えた。次の瞬間、それは早送りされた軟体動物の映像さながらに、階段を素早く滑り落ち、排水溝に吸い込まれていった。
 階段には、パーカや、ノートや、ばらばらのクレヨンが散らばっていた。ふしぎとどれも汚れていなかった。タイチはノートを拾いあげた。最初の頁が、真っ青に塗りつぶしてあった。
 ようやく大人たちが寄り集まってきて、いまなにが、どこに、などと騷ぎはじめた。集団は再びグラウンドや花壇に散っていった。タイチも階段を離れ、校外に出た。神秘は彼のなかで整合していた。大人たちは幾つもの出来事を、錯覚やトリックとして片付け、とうぶん血眼で消えてしまった少年を探し続けるだろう。
 タイチは海岸公園を走る。防風に植えられたフクの木の間を抜け、眩しい朝の海に臨む。彼は期待どおりのものを目に、耳にする。波間に浮かんでは沈む黒い背を。その泳ぎ去る音を。鯨ではない。なぜなら二本の雄々しいつのが、あたかも陸地を突き刺さんとしている。エンプティが引き起こした一連の奇蹟の、幕引きにふさわしい情景だった。霊獣の姿がすっかり見えなくなってからも、タイチはとても長いあいだ、現実とまぼろしのあわいに佇んでいた。海と空に挟まれた、美術館に、音楽堂に。
 潮風が髮をなぶる。
 

アクアポリスQ#3

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)08時42分53秒
編集済
   帰途、受信専用のケータイが鳴った。母が目を覚ましたのだ。教室に辞典を……と校長先生にしたのと同じ言い訳をして、花壇で見たものについてはいっさい触れなかった。
 家に帰ると、すぐさま自室からカンナの部屋に電話した。
「エンプティかも」とカンナは言った。
「そんなん……都市伝説だよ。だいいちPPの危険はもうなくなったんだ」
「PPとエンプティは無関係だってお父さんが言ってた。PPが天然痘みたいに撲滅されたというのも嘘で、統治府がそう見えるように表面を取り繕ってるだけだって。私たち、今でもみんなペールなんだよ」
 日本人はみな稀薄者【ペール】……斜に構えた大人たちが口にしそうな科白だ。どこかで耳にしたようなアイロニーより、カンナの当て推量のほうにタイチは心惹かれた。みずから言下に否定しておきながら、他の結論はありえないような気さえした。エンプティがこのアクアポリスに? 彼らの風聞が子供たちの唇にのぼるとき、いつもある種の畏敬が込められる。心の一部が空っぽな人々。だけれどその絵や音楽は、天使が描き、奏でているがごとく素晴しい。
 通話を切るまえ、カンナには固く口止めした。かつてアクアポリスの公園を、存在しえない野良犬が闊歩していたことがある。誰かが無許可で持ち込んで、手に負えなくなり捨てたのだろう。動物の飼育という飼育が禁じられているわけではないが、手続きが煩雑で、それ自体にも費用がかかる。
 全身の縮れ毛を伸ばし放題にした、ミニチュアプードルかそれ風のその犬を、タイチとカンナは一緒に目撃した。タイチは急いでマーケットに下り、サンドウィッチや牛乳を買いこんで公園に戻った。
「行っちゃったよ」と、同じ場所に佇んでいたカンナが振り返った。犬の姿はすでになかった。
 数日して同級生から、あれは駆除された、と聞いた。アクアポリスは余所者を許容しない。
「今度はどこに行くの」
 玄関のタイチに、母が訊いた。
 彼は俯きがちに、「パーカ忘れてきちゃった」
「学校に置いとけばいいじゃない、次の授業の日まで」
「たぶんトイレなんだ。あんなとこに置いときたくないよ」
「その荷物は?」
「内田くんの本とか。ついでに返してくる」
 級友に漫画雑誌を借りているのは事実だが、ショルダーバッグの中身はそれではない。エレヴェータで下層に降りたタイチは、マーケットを経由してから再び学校に向かった。
 虹彩認証を求める。
「今度はなに?」校長先生の声はあきらかに苛立っていた。
「パーカを、たぶんトイレに」と母への言い訳を反復する。「家に帰ったら着てなくて」
「もう明日になさい。先生の一部は登校しますから」
「お母さんに叱られます」
 吐息。「五分以内に取ってくること。教室のドアは開けませんよ」
 エントランスが開く。タイチは背中にまわしていたバッグを胸に抱えた。三階のトイレに走り込み、窓から出る。庭から庭へ。
 少年は、素直にタイチのパーカを羽織って、同じ花壇にうずくまっていた。ほかには何も着ていない。下着も靴もない。
「今は時間がないんだ」自分の下着、フリースの膝掛け、未使用のノートとクレヨンの箱、そしてマーケットで買ったパンやジュースを、タイチは花々の上にぶちまけた。「ライトも置いてく。退屈だったら絵をかいてるといいよ。三階……この上の上の庭のトイレの窓を開けとくから、寒かったらそこに。わかる?」
 少年は小さく頷いた。学年でいえば三年生くらいに見えるが、タイチの言葉をどれほど理解しているかは不明だ。いまだ一言も発さない。
 怯えの表情は薄れた。しかし緊張に身を固くしていないぶん、いっそう疲れきって見える。タイチから逃げようとしなかったのは、なにより腰を上げる気力さえなかったのだろう。
「そのパーカも着てていい。明け方はもっと寒くなるよ」
 少年は潮のかおりを漂わせているが、異臭はない。頭も……数日洗っていないようには見えるものの……散髪された名残がある。
「君、エンプティだろ?」タイチは初めて訊ねた。
 少年は答えない。
「どこからどうやって来たの」
 やはり答えない。ただ小首を傾げている。
「名前は?」タイチは自分の胸に手を当て、「名前だよ。僕はタイチ。この学校の六年生」
 反応を待った。しかし、何もない。
「親は?」
 ゆっくりとかぶりを振る。
 タイチはかえって驚いていた。理解している。
 バッグのファスナーを閉じながら、「朝になったらまた来る。ほかの生徒は来ないよ。もし君がこのアクアポリスに住みたいなら、そうできるようにお姉ちゃんに相談してみる。福祉の仕事をしてるんだ。きっとなんとかしてくれる」
「サイト」少年が初めて、かぼそく、掠れた声を発した。それから右手を胸にあてた。
 

アクアポリスQ#2

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)08時37分34秒
編集済
   アクアポリスには映画館もプラネタリウムも植物園もあるが、動物園はない。牧場もない。
 加土【かど】カンナの母とのAQフォンを切った自分の母親が、
「学校で牛が暴れたんだって」
 と言ったとき、タイチはまた得意の聞き違いだと思いこみ、取り合わなかった。
 カンナの母の表向きの用件は、颱風が上陸しつつあるが明日は在宅授業と思っていいのだろうか、という確認だった。タイチの母は保護者会の副会長をしている。すでにシーチューブが動いていないのは、各パティオのニューズヴィジョンやケーブル放送で明らかなのだから、主眼は雑談に違いない。
 颱風だろうが大雪だろうが、児童たちは傘も持たずにグライドラインを乗り継いで登校できる。ただ肝心の教師や職員たちがアクアポリスまで到達できない。姉の多恵【タエ】からはさっき、職場の仮眠室に泊まるという連絡があった。海が穏やかさを取り戻したらシータクシーで帰ってくるだろう。いったんチューブが停まってしまうと、点検が終わり運行が再開されるまでに十二時間から二十四時間を要する。
 三人家族の一人を欠いた、夜の居住ユニットは、胸苦しいほど静かだ。僅かにではあるが、不規則なタイミングで傾いてはまた平衡する床のうえで、じっと理論物理の本の続きを読んでいると、タイチは次第に気分がわるくなってきた。母も頭痛に襲われているらしくソファでぐったりしている。キッチンで酔い止めの錠剤を呑み、狭い自室に入ってベッドに横たわった。
 加土カンナが直通フォンを鳴らしてきた。同級生にからかわれるのが厭で、このところタイチのほうは彼女を避けがちでいるが、向こうはまるきり遠慮がない。親同士の仲がいいことから妙な連帯意識を抱いているようだ。しかも成績順どおり、自分のほうが目上だと思っている。
「牛、私が最初に見つけたんだよ。うちのママから報告行ってない?」
「あれ本当なの」
 タイチが驚いてそう返すと、彼女は鼻息もあらく、
「ひいらぎ区の海岸公園から小学校まで突進してって、フェンスもドームも突き破って、校庭のジャングルジムをぶっ潰したよ。嘘と思ったら、あした見てきてごらん」
 ひいらぎ区、ふよう区、みもざ区、よいまち区、いぬまき区……ひ、ふ、み、よ、い、の五区と、中央の小さな管制区にこの人工島は区分されている。タイチの家はよいまち区の高層、カンナの家は同区のより高層にある。もっともアクアポリスの居住区は、多数のパティオや架空庭園によって住民にあまり高度を意識させない。
「在宅授業だよ」
「そこだけ見にいけばいいじゃん。早くしないと修理されちゃうよ」
「ひいらぎ区の公園なんかに何しに?」
「颱風を見に。あっちが風上だから」
「危ないな。夕方には警報が出てたよ」
「危なかった危なかった、嵐じゃなくて牛がね。私の頭のうえ跳び越えたんだから」
「本当?」
「本当だってば。こんなん暴れ続けたらアクアポリスが沈没しちゃうと思って、善意で警察に通報してやったのに、なぜか親がすっ飛んできてさ、いま部屋に監禁されてんの。ほかに目撃者がいなかったら狼少女になるとこだった。牛少女か。やあね、牛少女だって」
「どんな牛? 誰がどこから運んできたんだろう」
「知らない。真っ黒で物凄い角が生えてて、とにかく莫迦でかくてさ。全長十メートルはあった」
「嘘つけ。そんな陸上生物いないよ」
「大袈裟だったか。七メートルくらい」
「嘘つき」
「ばーか」
 一方的に切られた。こちらから掛けなおすのはまるで謝罪するかのようで御免だが、牛の話は気になる。カンナは想像力ゆたかな少女だ。父親が新聞記者で、そこから仕入れてきた血腥い話を披露して級友を怯えさせたりもする。しかし嘘つきではない。それに目撃者はほかにもいたようだ。
 何が、よりによって巨牛に見えたのだろう。何者かがホログラムで悪戯を? いまどきそんなものに大勢が騙されるだろうか。しかもフェンスを破ったりジャングルジムを潰したという。多国籍軍の兵器の暴走?
 学校のあるひいらぎ区に住んでいる、べつの級友に電話した。教師間や親同士の会話にいつも耳を澄ませて、情報通を気取っている少年だ。なにか知っているのではないかと思った。
「さっき加土カンナが電話してきて、学校に牛が飛び込んでくの見たって」
 真に受けているようにも、彼女の冗談を笑っているようにも聞こえるよう、きりだした。やぶ蛇になった。
「加土さんのほうから掛けてきた? よくAQフォンで話してるの」
 と、つまらないことにこだわっている。目撃談の中身はどうでもいいらしい。タイチは母親に呼ばれたふりをし、早々に通話を終えた。
 リビングを覗くと、母はソファに両脚を引き上げて、かるく鼾をかいていた。タイチはいったん部屋に戻ってパーカを羽織り、そのポケットにペン型のスポットライトを入れた……。
 深夜にはまだ間があるものの、グライドラインに人影は乏しい。陸への通勤者も通学者も帰ってこられずにいる。
 ひいらぎ区の端まで行ってエレヴェータに乗り、操作盤では「D」と表示されている基準階に上がろうとした。ボタンは点灯しなかった。風雨が強まりデッキが立入禁止になったようだ。仕方なく小学校の通用口に戻り、インターフォンの前で虹彩認証を求めた。
「……六年の立花くんね。学校になんの用?」校長先生が訊ねてきた。むろん、自宅から返答しているのだ。
「教室に辞典を忘れました。明日は在宅授業だって聞いて」
「一日くらいネットで代用できない?」
「だいぶカスタマイズしてあるんです。せっかくの在宅だからSSSの通信講義もとってみます」
「偉いわね。教室までのあかりを点けます。寄り道しないこと」
「トイレにも?」
「トイレも点けておきます。教室と同じフロアでいいわね」
 教室は三階にある。トイレの窓から庭に出た。架空庭園やパティオは、緊急時の避難路を兼ねているから、行き来が閉ざされることはない。
 階段づたいに庭から庭へ渡って、グラウンドに下りた。透光繊維のドームが多量の雨に打たれ、群衆の拍手のような物凄い音をたてている。音が鮮やかな方向にスポットライトを突き出す。光を、ぐにゃりとした大きな塊がはじき返してきた。カンナが言っていた巨牛かと思い、思わず足を竦める。いや、動く気配がない。あの場所……。
 タイチは駆け寄った。塊は、傾いた椀のように変形したジャングルジムだった。本来はほぼ立方体の構造物に、いったいどれほどの力が加わったのだろう。
 校庭の端に向かう。ドームの穴は、校庭の外周を成す格納庫のずいぶん上に、ぽっかりと空いていた。直径二……いや三メートルはある。その高さ、大きさ、なにより穴の縁のさまの鮮やかさに、タイチは唖然とした。縦長の見事な楕円形。周囲は裂けていない。まるでそういう形の弾丸が通過したように。
「立花くん、トイレなの?」
 校長先生の声が響く。いつまでも教室のカメラに写らないからだ。
 校舍へと駆け戻る。一階の庭園に上がりかけたとき、花壇のなかの白いものに気づいた。照らしなおして、うわあ、と叫んだ。
 

アクアポリスQ

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月18日(水)08時30分51秒
編集済
  04.10.6

  アクアポリスQ

   プロローグ

 たてまえ上、今のアクアポリスは陸【おか】よりも揺れないことになっている。
 けれどサイトが現れた晩は、部屋が傾ぐのがはっきりとわかったし、ああ荒れた晩でなくとも奇妙な揺れを感じることはある。たてまえの理屈はこうだ。この五角形の街はきわめて軽量に設計され、また中空部分が多いうえに専用の気嚢室もふんだんに備えているので、ゴムボート並みの浮力がある。そんな代物がゆらゆらと沖に漂い出さずにいるのは、外周から放射状に張り出して海底のアンカーを掴んでいる数千のハイカーボン・ワイヤーの功績だ。一本一本の直径は二メートルに満たない。街ひとつを地球に結びつけている命綱としては、心許ないと感じる人もいるだろう。
 実際は、むやみに太くて自重のあるワイヤーよりもずっと丈夫だ。昔のワイヤーはじつに太く、そして切れることが多かったという。各ワイヤーの張り具合は、スーパーコンピュータを軸としたネットワークによって予見制御されている。まるで風を読みながら巨大な凧を操るように、糸を引いたり弛めたりして大波の力を逃がし、常時アクアポリスの平衡を保っているというわけだ。
 タイチの母の記憶によれば、追加分譲のパンフレットには「量子コンピュータによる完全制御」と、派手派手しく記されていたという。国家や自治体による欺瞞に酌量の余地はないが、この誤記には同情しうる。なにしろArta-Computing Engineが誕生する何年も前だ。現在ですら理解者は稀有だという量子コンピュータの、なんたるかをわかっている者など、開発現場の一握りに限られていただろう。官庁の誰かが聞きかじったその言葉を「凄いコンピュータ」の意味でパンフレットに使い、他の誰も間違いに気づかなかったのだ。無知の所産だ。
 アクアポリスのために波を予見し続けるようなルーティンワークにACE【エース】が一役買うのは、ずいぶん先の話に違いない。いまタイチが読んでいる理論物理の本は、穏便に「パンドラの匣」とそれを譬えている。マスコミは不用心に神や魔物を引合いに出して、よく宗教団体や学会の顰蹙を買っている。どの表現も、意味せんとしているところは同じだ。量子コンピュータは核エネルギー以来の特大の発明品であり、扱いさえ間違えなければ、きっと人類を幸福にしてくれる。誤れば、滅ぼしかねない。
 アクアポリスの制御にかぎっていうなら、たかがスーパーコンピュータの予見もそれなりに機能している。システムが完備されていなかった昔のアクアポリスは、嵐のあいだ、船酔いするほど上下したらしい。そんな街でも、震災と大沈下を経験したQ市民には大歓迎され、初期分譲の抽選倍率は数百倍だったという。
 擬似的な予見に過ぎないので、常時、すくなからぬ誤差が生じる。誤差の蓄積が、窓から見える海上のさまとはシンクロしない、独特の揺れを生じさせる。
 アクアポリスで生まれた子供の平衡感覚は特殊で、脳幹が揺れのパターンを記憶し、無意識に補正し続けているという話がある。だから陸上では逆に揺れを錯覚する。運がわるいと心身症に陥る。学校や職場を辞めてアクアポリスに舞い戻ってくるケースは少なくない。陸生まれのタイチはその逆の、つまり一般的な体質で、ここに引越したての頃はいつも何かに怯えているような、疳の強い赤ん坊だったという。母が頭痛持ちで寝込みがちなのも、アクアポリスに暮らしているせいかもしれない。
 内地は物騒だから、というのが彼女の口癖だ。海水に浮かんでいることさえ忘れていられれば、パスを持たぬ者は基本的に上陸できないこのこぢんまりした街は、安全で美しく、学校や病院、ショッピングモールといった生活施設にも過不足がない。島内で入手できない品があっても、シーチューブとトラムラインを乗り継げば簡単に、危険な海岸地帯を素通りして、新繁華街やより山の手にも出られる。
 もしこの冬の試験に受かってしまったら、春からは週末ごと、今とは逆方向のシーチューブにタイチは乗るのだ。陸に出掛けてアクアポリスに戻ってくるのではなく、金曜か土曜にアクアポリスに出掛けてきて、月曜の朝までに陸へ戻っていく生活が始まる。
 先月、タイチは十二歳の誕生日を迎えた。トリプルズという響きが、いっそう重く心にのしかかっている。トリプルS、トリプルズ……Q市立のSSS【スーパーサイエンススクール】を、アクアポリスの親たちはそう、畏敬をこめて呼ぶ。陸の親たちもだろうか?
 合否が不安で気が重いのではなかった。タイチの成績は学年で五指に入る。よほどのアクシデントでもないかぎり、試験は通過できるだろう。問題は、彼がその学校にまるで興味を抱けないという一点にあった。
 立花太一は画家になりたい。
 

ありがとうございました

 投稿者:瀬名秀明  投稿日:2015年11月17日(火)01時18分15秒
  津原さん

日本SF大賞候補作の選出の件については、クラブの現役会員からお話があったようでよかったです。

お返事、とても嬉しく思いました。
私のブログですが、末節の部分が過剰に注目されかねない様子なので、それは私にとって本意ではなく、また津原さんにとってもご迷惑だと考え、先ほど削除いたしました。恐縮ですが、ご了承いただければ幸いです。

ですが津原さんとこのようにお話しできたことは本当によかったと思います。心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。
 

日本SF大賞候補作

 投稿者:瀬名秀明  投稿日:2015年11月16日(月)19時43分43秒
  津原さん

日本SF大賞の候補作は、会員の投票で決まります。
5作まで投票可能で、1作につき1票。
5作挙げてきたら、各1票。
1作しか挙げてない場合でも、その作品に1票。(5ポイントとはならない)
だから投票した人の数で決まります。

集計は会長も見えるクリアな状態でおこなわれるし、何度も集計し直すので、集計に不正があったということはないはず。万が一、集計が間違えていたら、それは当時の会長だった私の責任。

その早川の編集者は、会員であるにもかかわらず、候補作の選出方法を知らなかったということでしょう。
だから「不正だ」というのは、その人の勘違いでしょう。
そもそも不正があったら、まず事務局か会長に申し立てるべきで、津原さんに話すことではない。
その編集者は総会の席で一言みんなにお詫びした方がいいでしょうね。

現役の会員からご説明もあると思いますが、私からも言えば複数の発言になって信憑性が増すと思うので、書いておきます。
これでよろしいでしょうか。
 

御返答ありがとうございます

 投稿者:ノイメール  投稿日:2015年11月16日(月)17時29分12秒
編集済
  今は個人で楽しむ、あわよくば津原さんに読んでいただきたい、というのがモチベーションですが、ウェブや同人などで公開する場合にはロゴマークの件、連絡させていただきます。
設定の公開を楽しみにしています。

たくさんの人が楽しめるシリーズになることを願っています、御返答ありがとうございました。
 

〈憑依都市〉の設定

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月16日(月)16時22分46秒
  ノイ様;

 サイトそのままは個人情報に触れる可能性がありますので、近いうちに整理して公開します。設定の使用は無料です。
 ロゴマークは共有してくださると嬉しいな。データをお送りできます。大企業だって五千円です。同人だったらべつに五百円でもいいですよ。
 金額の問題じゃないんです。敬意を払ってくださる方にこそ、書いてほしい。
 

憑依都市について

 投稿者:ノイメール  投稿日:2015年11月16日(月)13時34分40秒
  Twitterの一連の投稿で「憑依都市」のシリーズについて知りました。
自分もぜひ憑依都市の世界観で作品を書いてみたいなと興味を持ったのですが、アクアポリスQやSFジャパンなど(中古で出回ってはいるようですが)は現在入手が困難になっています。
厚かましいお願い/質問だというのは重々分かっていますが、形式はどうあれ、ある程度世界観や設定などをまとめたものを公表、公開してはいただけないでしょうか?

直接ご本人に問い合わせる失礼をお許しください。
 

瀬名さんへ

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年11月16日(月)01時32分32秒
   もろもろ拝読しました。その後の「SF界」でのご苦労も伝え聞いております。
 僕がこのたび本気で怒ったのは、「なぜ俺が抜けたと云われる? 最後まで残ったのは俺じゃないか。誰がそんな噂を流した?」というポイントに於いてです。ここには悪意の介在を認めざるをえず、犯人もだいたい分かっているのですが、実に苦しめられてきました。
 週刊アスキーに関して遺恨はありません。後発した瀬名さんの連載も拝読していました。
 実は〈憑依都市〉、さる脚本家を立てての仕切り直しのプランもあります。改めて瀬名さんともタッグを組めたらと思います。
 貴方の実直さに、僕は敬意を表します。非礼の数々、お赦しください。
 僕ら、利用されましたね(笑)。僕は一銭も儲ける気はなかったのです。あの時は広島から出ていく旅費だけで大変でした。でも皆さんに会えると思って……。

   机下 津原
 

津原泰水さんへ

 投稿者:瀬名秀明  投稿日:2015年11月16日(月)01時10分54秒
  津原泰水さん
瀬名秀明です。〈憑依都市〉のことをツイッターで拝読しました。
「反論」ではありませんが、思ったことを書いてみました。検索ではなかなか引っかからないと思いましたので、恐縮ですがお知らせします。ご期待に添える内容ではないかもしれませんが、しっかりと向き合って書いたつもりです。ただ、申し訳ありません、これ以上はなかなかお返事できません。ご理解ください。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

http://hsena.sblo.jp

 

涙の筋肉少年

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年 9月22日(火)03時12分11秒
  http://tsuhara.net/music/muscleboy20100608.mp3  

音楽にまつわるアンケートへの回答

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年 9月20日(日)06時13分29秒
  2001.9.4

津原泰水

  1:仕事中のBGM
   作品によっては、意識的に、流しながら書きます。『ペニス』の作業中、さかんに流していたのは、もちろんチャイコフスキーです。

  2:音楽の影響、あるいは音楽を意識して書くか
   自作というより人生そのものに、多大な影響を受けており、音楽的なイメージを欠いては、物語が成立しえない作品もあります。『妖都』は、間違いなくそうでしょう。また『蘆屋家の崩壊』の語り手「猿渡」は、エレキベースやウクレレを弾きます。
   古い唄の題名を、副主題として作中にちりばめるのが好きです。『妖都』には「薔薇色の人生」、『少年トレチア』には「君を想いて」。

  3:自分のテーマソング
   『マイ・フェア・レディ』で、イライザの父ドゥリトルが謳う、「運が良けりゃ(With a little bit of luck)」。

  4:演奏する楽器
   マンドリン、コントラバス、エレキベース、ラップスチール……と、多様な弦楽器を手にしてきましたが、現状、人前で演奏らしい演奏が可能なのは、ウクレレとギターだけです。いちばん思い通りになるのは、エレキギターです。

  5:フェイバリット音楽家
   自分自身がギター弾きだから、という前提のもと、ジャンゴ・ラインハルト。
   ルイ・マルの『ルシアンの青春』という映画に使われているのを、正確には、その予告篇の背景に流れているのを、十代のころ聴いて、忘れられなくなりました。のちに、彼の左手が不自由であったことを知りました。今でも、史上最高のギター弾きだと思っています。
 

ペピの体験

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年 9月19日(土)14時57分26秒
編集済
   鉱物質の堕天使は


 瓢箪から駒とでもいおうか、制作者たちの目算を大きく凌駕したところで、完璧にちかい書物が出来上がってしまうことが、ときにはあるようだ。
 今はなき富士見ロマン文庫の一連の作者不詳ものが好例で、足利光彦の丁寧な翻訳、金子國義のカバーデザインは文句なしに素晴しいのだが、それでも、出版にまつわる当時の事情を憶測するに、上梓から三十年を経てなお燦然たる傑作出版物に化けるとまでは、関係者の誰も予期していなかったと思うのだ。
 なかでも白眉は、『バンビ』で有名なザルテン作とも云われる、大作『ペピの体験』だ。高級娼婦の自叙伝を模してはあるけれど、まずフィクションであるとここで断言しておきたい。そうでなくては困る。実話めかした体裁とは裏腹に、描写はいずれも神話並みに空虚で、読者が主人公ペピの体温を感じるのは、至難だ。
 執拗に、考えうる限りの性的行為をペピに味わわせる著者の興味は、生物としての女にはまったく向かっていない。良識という血肉を剥がれたベアゾール(馬や山羊の結石。動物が生成する鉱物として古代より珍重された)のような魂を、読者そっちのけでデッサンしつづける。
 お蔭で、三十年も愛読をかさねていながら、僕には未だペピがどんな女なんだか分からない。裏を返せばペピというのはどんな女でも、あるいは男でもありうるということだ。
 言葉の、描写の、みごとなまでの重みのなさ……空虚感は、『ペピの体験』という書物にたいへん面白い特徴を与えている。ひねくれたことを申すようで恐縮だが、読んでいるときより読んでいないときのほうが面白いのである。閉じたままカバー画を眺めているあいだのほうが、ペピがさまざまな猥語を囁きかけてくるようで、心中おだやかでいられない。
『ペピの体験』は原題を『ヨゼフィーネ・ムッツェンバッヒェル』という。愛称ペピに対する彼女の本名である。もちろんそんな女は歴史上のどこにも存在しない。右に断言したとおりフィクションだから、というのももちろんあるけれど、もし現実世界に素敵な鉱物質の堕天使を見出したとして、黒い分厚い文庫本の姿ではないそれを、僕がペピと錯覚するのは難しかろうと想像する。
 ペピは、どこにもいない……書物のなかにすら。書物そのものでしかない。

            08.5.22
 

稲垣足穂

 投稿者:津原泰水  投稿日:2015年 9月19日(土)13時49分14秒
編集済
  06.1.26

  タルホエンジン

 早口の人だったと聞きます。黒柳徹子など目じゃなかったそうです。そんな調子で「A感覚とV感覚」や「異物と滑翔」式の論法をまくしたてられたなら、浅学な僕なんざたちまち紙のように平たくなって、障子の隙間から舞い出てしまったことでしょう。幸か不幸か機は訪れるべくもありませんでした。足穂が入滅したのは僕が十三のときです。
 異様なほどの早口。連想されるのはその著作に見られる空白恐怖とでも称すべき傾向です。同じ傾向が時間軸に対しても作用していたわけです。『一千一秒物語』しか知らない若者は、足穂のどこに空白恐怖がと首をかしげるかもしれません。しかしかの超短篇シリーズ……あれはあれで空白への畏れの産物です。物書きの端くれである僕はわかります。話し言葉の猥雑な力を借りてでも一気呵成に埋めてしまいたいもの、半可な枝葉や綾では抗すべくもなく降参させられてしまうもの、どちらも原稿用紙の白い升目です。
 他作家の悪口も尽きなかったといいますから、すなわち目まぐるしい語りは彼の防御にほかなりません。必ずしも最大ではありませんが攻撃はたしかに防御として機能します。弱虫の防御です。かの大作家が弱虫だったと抜かすかと問われれば、そう確信すると答えましょう。ただしきわめて美的な弱虫です。彼の排気する超絶のロジック、自己愛に満ちた追想、おそらく雑言でさえ、雲母の煌めきに満ちていました。たとえば……。

 こんな晩方には、下町の飾窓の前を行き交う群衆の中には……その直ぐ前の交叉点を焔のように輝きながら曲がって行くボギー電車の中にも、向うへ縮まって行くリムジーンの潤んだ紅いテールライトの中にも……曾て自分がよく知っている或る物があって、そうして今夜こんなふうに自分が歩いているのは、実は杳かに遠い未来の夜であり、しかもそこは星の世界の都会ではなかろうかという気がするものだ。(『弥勒』)

 小説には珍しい文です。「曾て」主人公がよく知っている物は、彼が生身を置いている昭和の夕べに散在し、しかもその一刻は「杳かに遠い未来の夜」に属していそうだというのです。二つの時制の相似や邂逅を語った文にはよく出逢いますが、この一文は過去は現在に含まれ現在は未来に含まれるようだと、我々がつねづね前提にしている時間の観念をあっさりと否定しています。とすれば最後の部分……「星の世界の都会」という言いまわしは、五感的空間性の否定と捉えられましょう。膨張宇宙モデルは足穂みずからが自分の創作の足場と認めているわけですが、その驚嘆の感覚を、まるで故郷のように懐かしむ青年像……そんなふうな小説との融合のさせ方は、やはり面白いと言わざるをえない。まさに雲母の煌めきです。
 より遡れば「薄い街」という小品に行き当たります。ダイヤログのみのこの作品も小説としては異様で、足穂と思しき「逆さにぶら下がっている」人物が、相手に対してひたすら幻の街のありさまを説明します。それ以上の展開はありません。距離は大小に、重量は輝きへと変換されたっきりの、すなわち錯視がそのままに実存するステンドグラスのような街です。一切が即席の法螺のようにも読めます。語り手が「逆さにぶら下がっている」こと一点がその街のリアリティなのですが、本来どちらの世界に帰属する人なのかさえ読者にはつまびらかにされません。行き来の方法もわかりません。

 そこはいったいどこなんです。
 どこでも!
 どこでもですって?
 そうです。この街は地球上の到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです。だんだん濃くなってきましょう。(「薄い街」)

 と、ただ彼は街の存在を公言するのです。目的は語り自体にあるようです。
 足穂はきらきらしたガスを噴射しながらぶっ飛ぶジェット機でした。排気が推力となる逆説の飛行機はいかにもタルホ的ではないですか? 追いつめられたように早口の人、作品もダイヤログだらけだった足穂の、排気口はもちろん唇です。ちなみに僕は手で文章を書きますが、足穂は舌と唇で書きました。勘のいい読者はお気づきでしょう……続いて僕は足穂の吸気口のことを書こうとしています。
 イナガキタルホもジェットエンジンも、トポロジカルなイメージにおいては一個の筒に過ぎません。内側でちょっとした化学変化が生じるところもそっくり同じです。美食がそれ相応の生成物をこしらえることに意識的だった足穂は、きらら混じりの排気によって飛翔し続けるには、吸気口にしかるべき結晶体を放り込むべしともよく承知していました。肛門で実際に貴石を味わってもそれなりの効能はあるのでしょうけれど、ここで僕が結晶と称しているのは、絶対零度の主観で凍てついた郷愁……ガス灯の下を駆け抜ける少年のシルエット……拡散していく昨日の匂い……そのようなものです。双曲線の中心に浮かびあがる無意識点です。よく知っているがうまく掴めない、かといって忘れられもしない、そんな名状しがたいものをキュッと引き締めた粘膜によって愛でるのが、タルホエンジンの吸気構造です。
 想像が過ぎていたりレトリックが先走っている部分はありましょうが、僕は正直、足穂には右のような自己規定が強くあったと信じております。人生の初期に書くべき幅を決めてしまい、ほとんどその通りの文筆生活を送った特異な作家です。古い作品をリシェイプして発表しなおすのを厭わなかったのは、もちろん新しいアイデアが無いからなどではなく、モチーフを厳しく限定していたからでしょう。たいへん珍しいタイプだと思います。ゆえあって村山槐多や尾崎翠の内面を追うはめになった経験があります。ともに一種の奇人でありましたがそれは社会人、生活者としての側面です。対して足穂は奇人であるうえに奇作家でした。
 足穂も槐多も美少年を好みました。足穂の美少年賛美は抽象的でノスタルジックです。一方槐多のそれは具体的であり進行形です。ゆえに相手に振り回されます。環境によっては平然と少女好きや年増好きに鞍替えします。自己規定ありきの嗜好ではなく、つまり晴朗です。それに画家でもあった槐多は間違いなく手業の人でした。こういう人は手よりも先に頭を使うのを嫌います。思い込みによって指先の自由が失われるのを懼れます。
 抽象線による設計図を描いてから『第七官界彷徨』をものした尾崎翠……現実の恋愛に臆しがちで、頭痛藥の多用による譫妄に悩まされていたともいわれる彼女には、だからというわけでもないのでしょうが、まだしも足穂に近いところがあります。記号化された人物像や科学志向は作家の個性というより時代を彩っていたモダニズムの反映でしょうが、過去と現実とリアルタイムな思索がべったりと並列した文面、マクロを強く意識しながら偏執狂的にミクロへ向かっていく視線など、たんに時代の空気という以上に似通った空気のなかで両者が筆を執っていたのが感じられます。ただし、早熟とはいえず一家を成したとの自覚もついぞ得られなかった翠に、スタイルを振りかざす余裕はありませんでした。自己規定するまでもなかったということです。
 ちなみに槐多と翠はともに一八九六年生まれで、宮沢賢治も同い年でした。足穂はその四つ下です。一九世紀最晩年の生まれです。

 足穂世界は病理の産物かといえば、ある程度はそうだったろうと僕は考えています。パラノイアであれアル中であれ、より高位な自我がおのれの背中を眺め、ときには遠隔操作してことさら莫迦を演じさせ、それら一切合財を執筆の糧とするのが物書きというもので、この凄まじいプロセスにこそ作家の叡智や天賦の閃きが問われるのです。
 戦争の世紀とともに齢を重ねていく少年足穂、青年足穂の目に、世人の、地上の、理念なく情に流されて恥とせぬ愚昧さはさぞ忌避すべきものに映ったでしょう。一方には宇宙の神秘を解き明かさんとしている人達がいて、彼らが試し書きした拡散のグラフを一瞥すれば、人間やら国家なんぞ黴よりも矮小であること瞭然だというのに、二〇世紀はひたすら蛮行の歴史を積み上げていきます。
 重苦しく、いがいがした現実からの自己防御としてタルホ宇宙のビグバンが起きたのか、すでに宇宙が萌芽していたがゆえに頑なな守りが必要だったのかは、きっと鶏と卵の話となりましょう。ときおり見掛ける、戦争の世紀……大量死の世紀が人の匿名性を発明したという論に対して、僕はつねづね首を傾げています。それ以前には個体認識の時代、個性謳歌の時代があったのかという疑問を抑ええません。しかしながら僕やその後の世代までもふくむ二〇世紀人たちが、戦争によって、都市災害によって、新しい差別によって、拝金思想によって、満員電車によって、箱詰めされたヒヨコのような気分をたびたび味わわされてきたのは事実だと思います。星だと信じていたものは息抜きの孔であり、輸送トラックが揺れるたびにてんやわんや、居場所を確保し安眠できるかと思いきや、外界の都合次第で箱ごと川に放り込まれもするのです。その外界からして一回り大きな箱の中に過ぎないのでしょう。そんなアイロニーを踏まえての“ユートピア”がタルホ宇宙です。君臨する神はもちろん足穂です……あ、菩薩でしたか。
 江戸川乱歩との対談中、足穂は「ヰタ・マキニカリス」を説明して「ヰタとは生命、マキニカリスはマシーン、機械、からくり、仕掛、つまり宇宙博覧会の機械館という程の意味です。ヰタ・マキニカリスの理想は、美少年と美少女の結合の上に生れるコバルト色の新文明です」と述べています。この言葉により僕の脳裡に浮かぶのは若い美貌でも青き輝きでもなく、電化製品の裏蓋を開けて覗き込んだときの内部です。色の表現は多いのにカラフルな印象が薄いタルホ宇宙は、彩色されたコンデンサやダイオードが行儀よくハンダ付けされた配線基盤に、とても似ています。

「地上とは思い出ならずや」……こんな言葉を嘗てお昼の銭湯に浸かりながら思い浮かべて、何かしら愉しくなったことがありましたが、(白昼見)

 すべて無個性な世界、錯視と抽象の世界は、ゆえに凡ての存在が互いに役割を交換できるという美徳を備えています。ヒヨコと星ではそうはいきません。今度は基盤ではなく電子ブロックの譬えがいいでしょう。むかしそういう玩具がありました。槐多のことを書かせてくれた学研が発売していました。正方のブロック一つ一つに、ストレートや二叉や三叉の銅線やらダイオードやらが埋め込まれており、並べ方によってラジオが出来たりメトロノームになったりするのです。あれはじつに近い。むしろタルホ宇宙を目指して、あの玩具は設計されたのではないかと思えるほどです。
「お月さまは自分をポケットに入れて歩いていた」が成立してしまうのは、こうしたユニット性によります。読者の錯視や連想次第で「自分」は「紳士」となり「郵便飛行機」となり、バタンと閉まる「ドア」となり、月が昇るとともに開く「カフェ」となり、その「月」となり「地球」ともなります。ガス灯の下を駆け抜ける少年のシルエットは、学校の誰かであると同時に、少年の日の足穂自身です。足穂が彼を見つめることは、足穂が彼に見られるということです。そうして互いの一瞬の永遠性を保証しあうのです。

 以上の駄文において、足穂作品に特有の時間感覚の稀薄さや、音の描写がまるで人形劇の効果音のようであることなどに至るまで、かろうじて論証しえているかと存じあげる次第です。それにしても足穂は難しい。世界一難しい作家です。お別れのご挨拶がわりに、少しだけ触れておきたいトピックがあります。足穂の描かれ方です。足穂が足穂を描く場合のことです。
 河出文庫の『弥勒』が所収しているような私小説風の自伝や日記をどうして足穂が発表するに至ったのか知りませんが、何度読んでみても無反省な人だなとか自嘲が苦手だったのだなと思う程度で、あまり感心した経験はありません。足穂は好きなのに、足穂が描いた足穂に好感が持てないというのは皮肉です。エンジンにエンジンを繋いだら重たすぎた、といったところでしょうか。
 果たして作中の足穂らしき人物がエミール=江美留という呼び名を与えられている、すなわち足穂から一面で乖離している表題作において、作家の筆は冴え冴えとし、「戦慄的低空飛行」の暮しを送る主人公もどこかしら凛として見えます。神にも神自身を舐めまわすのは難儀で、それなりの手続きが必要だったようです……菩薩でしたか。
 僕の生年(一九六四年)に発表された「洋服について」は、のちに序にあたる「1」が加えられて「緑色のハット」に変わりました。ここまでは本文から読み取れるのですが、「3」の掌篇はいつ加えられたのでしょう。最初から引っ付いていたのでしょうか。ともあれこの作品で、ジェット機はとんだ宙返りを披露しています。「1」で神戸元町で買った緑色のソフトが気に入っているという話をし、いつでも自分の頭に乗っていると言い、つまり彼が苦手としていた方向に進みかけるのですが、「2」は少年時代の追想(これは得意です)を交えたペダントリ、「3」をなす掌篇において、なんと足穂は自身を消してしまいます。
 足穂が所有している緑色のソフトを被っているのは、足穂ではない唐突に現れた「恐ろしく背の高い人」です。彼は子供たちに帽子を「世界の果の町」「地球のふちにある小さな都会」で買ったのだと教えます。足穂自身もずっとその場に留まっているというのに、背の高い人も子供たちも見えていないかのように気を払いません。足穂が果たすはずだった役割は背の高い人に委ねられ、そのまま物語は終わって、リアルな足穂が透明になり矛盾なくタルホ宇宙に留まっているかのような、不思議な効果を釀成しています。
 のちに爆発的に増殖する信奉者を予見しての、作家の置き土産でしょうか。それにしても僕は好きです。

            06.2.2
 

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